<Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>
その後に、鍛冶屋または鍛冶屋の弟子は、金粉を溶炉に入れて、それを、冶金し、精練し、鍛錬する。しかし、彼は、それでも金を炉から取り出さない。
というのも、残渣はいまだ完全には取り除かれてはおらず、(+そのため)金はいまだ柔らかではなく、用いるに難しく、光っておらず、砕けやすく、塑造しにくいが故に。
しかしながら、鍛冶屋または鍛冶屋の弟子が、(+引き続き)金を冶金し、精練し、鍛錬したならば、残渣は完全に取り除かれ、この時、金は、柔軟になり、用いるに易く、明るく光り、塑造し易い。
それを用いて、どのような首飾り、王冠、イヤリング、ブレスレットまたは金の鎖を作るにしても、その目標を達成することができる。
同様に、比丘たちよ。
増上心(すなわち定の修習)の育成に尽力する比丘は、彼の心内にある雑染、たとえば、身口意の悪行(+が存在するとしても)、熱心でまた有能な比丘は、これらの悪行を放棄し、駆逐し、廃止し、滅して取り除くのである。
(2-34につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>