<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
良師の重要性
多くの人々は、彼らの歩むべき、心霊上の修行の道における教師の重要性を、しばしば低く見積もりすぎている。
彼らは、決して、時間と精神及び努力を払って、良き師を探し求めようとは、しない。
彼らは、教師とは、一冊の本のようであると見做しているが、もし、色々な事柄の、そのすべてが、すでに本の中に書かれているのならば、なぜ苦労して良き師を探し求める必要があるのだろうか(+と彼らは思っている)。
そうであるならば、我々は、直接本から学べばよいのではないか?(+と彼らは思っているのである。)
ある日、アーナンダ尊者は、世尊に言った:
「尊者、これは梵行の半分です。それはすなわち:善き友、善き朋友、善き仲間(+が傍にいる事)。」
(世尊は言う:)「そうではない、アーナンダ、そうではない、アーナンダ。それは梵行の全部である。それはすなわち、善き友、善き朋友、善き仲間・・・」
≪相応部・45道相応・第二経≫
なぜ、良い師がこれほどに重要であるのか?
それは:
1、人々はよく以下のように言う:
「私は経典に従って学んでいる。ということは、仏陀に従って学んでいるということであって、これで十分ではないか?」
表面上から見れば、あなたは仏陀に従って学んでいるように見えるが、しかし、あなたが経典を読んでいる時、あなたが理解できるのは、己自身が理解できるレベル(+の内容)でしか過ぎない。
故に、あなたが理解できる仏陀とは、あなたの経典への理解のレベルに影響されて、真正の仏陀とは、ほど遠いものである、ということになる。
しかし、もしあなたが、あなたより智慧(+のレベル)が高く、あなたより経典への理解が深い人に付いて学ぶことが出来るならば、あなたは、全く正反対の、しかし盤石な根拠のある観点に立って、経典を理解し直すことができるという事を、発見するに違いなく、そのことによって、あなたは更に深く仏陀を理解し、真正なる仏陀に、更に近づくことができるようになる。
こうしたことから、良師に付いて学ぶことによって、あなたは、あなたの有限の思想の型枠の中から飛び出すことができる(+のだという事が分かるのである)。
(3-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>