Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-40

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

四、己を教師にゆだねる

「尊者、私は今、自身をあなたにゆだねます!」

《清浄道論・第三章・第128段》

もし、己自身を捨てる事が出来ないのであれば、以下のような性質を持つ人間になる。すなわち:

指摘を受けるに耐えられず、頑固で、忠告に耳を貸さない。

または、教師に尋ねないまま、己の欲する所のままに、あちらこちらに行く。

このような人間に対して、教師は財の施もしなければ、法の施もしない。そのため、彼は典籍における奥義を、学ぶことができない。

《清浄道論・第三章・第26段》

上記の事柄は、あなたが(+教師に)質問をしてはならない、などと言っているのではない;

あなたは教師に、尊敬の念を持って、教えを請わねばならない。また、このことは、あなたが教師の示した指示内容を、教師と議論してはならない、ということでもない。

教えを乞うた後、また議論の後、あなたの教師は依然として、あなたのロジックの範囲外の事をさせようとするだろう。

もし、彼が、上述の通りの良い教師であるならば、あなたは出来るだけ、彼の指示に従うべきである。

初めの頃、あなたは多くの物事を理解することができないかもしれないが、しかし、巨大な信心(=信頼感)と尊敬の心でそれらを実践する時、それらを、己自ら体験した後において、あなたは更に深い理解が、得られるであろう。

それは、あなたの持つ、正規のロジックと推論の範囲の外の、更に高度なレベルの事柄なのである。

解脱ーーこの究極的な快楽(=楽しみ)は、世上での、最も貴重なものである。

普遍的な快楽を求めるにしても、あなた長年の教育を受けねばならないし、その上に仕事にも奮闘しなければならない。そうして、その後において、物質上の些かの享受と、快適さが手に入るのである。

しかしながら、心霊上の快楽・禅定が齎す快楽は、更に高度なレベルのものに属しており、それは非常に、貴重なものなのである。

故に、学生としては当然、精進しなければならないが、特に、教師の指示に喜んで従う気持ちを保ちつつ、己自身の変容を目指すことが肝要である。

こういう事から、教師は、劣等なる学生に、奥義の典籍を教授することはないと、言われる。

◆結論:

(一)教師を通してしか、我々は、修行における、奥義の部分を学ぶ事ができない。

(二)自身の我執と我慢(=我ありと言う傲慢)を捨てることができないのであれば、(+尊い教えを)教授される事はない。

(3-41につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>