Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~蕎麦の実から思う事

先日、水中運動に行きましたら、運動仲間のおばぁさんから「蕎麦の実が欲しい。インターネットで買えないか?」という相談を受けました。

どうやら TV の番組内で、蕎麦の実が体にいいと、宣伝されたようです。

庵に帰って、調べてみましたが、某通販会社で、普段 600円程の蕎麦の実が、2500円くらいに高騰していて、びっくりしました。

TV で紹介されてから、購入者がうなぎ上りに増えて、販売業者がどんどん値段を吊り上げたようです(健康で長生きしたい、その為ならば、火の中水の中、という人の多い事、多い事)。

高騰している蕎麦の実の、インターネットの通販画面を見ながら、五穀米とか、十二穀米とか、色々出ているのだから、蕎麦の実に拘る事もないかな、と思ったのですが・・・。

私、仏教徒としては、もう一つ、別の事を考えました。

それは、仏陀が「心と身体は己のものではない」と言ったという、その言葉の内実です。

これは一体、何を意味しているのでしょうか?

以前、台湾の比丘尼さんから教わったのですが「あなたが箪笥を見ている時、あなたは箪笥ではありえない」という、世の中には、至極御尤もなロジックがあるのですね(全くもってコロンブスのたまご>です。聞くまでは、こんな簡単な事を知らなかったのですから、オソマツ)。

このデンでいくと、心と身体が己のものではないという事を知るためには、己の心と身体が観えなければなりません。いえ、観えれば、観えさえすれば、仏陀の言葉が証明されたことになります

そのために、仏教では「32身分」という修行方法、「名・色観察法」という修行方法があります(名とは心で、色とは身体の事です)。

仏陀は言いっぱなし、な~~んて無責任な事はしません。ちゃんと修行方法まで、教えてくれています。

でも、真剣に取り組む人はとても少ないです。

もし、本当に心と身体が自分のものでなくて、それが修行によって確認する事ができるならば、自分はどんな生き方がしたいでしょうか?

もう一度原点に戻って、よくよく考えてみたいものだと思いました。

追記:「名・色観察法」は、無常・苦・無我の観察の外、<観る者と観られる者の関係性>をも問うもので、これを極める事は悟りであり、仏法における、重要な命題の内の一つです。