Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

☆「掌中の葉」(翻訳文)5-22

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

2、瞋恚と怨恨は病の如くである

もし、胆の病を持つ人に、糖蜜または飴などを与えると、彼は食べても、味を知ることができない。

彼は、それらの味は苦いと思い、吐きだしてしまう。そして言う:

「これは苦い、これは苦い!」と。

同様に、瞋恚と恨みの心で充満している人は、慈悲ある戒師、または導師が、ただ軽く注意をしただけでも、彼は受け入れる事ができない。

彼は全力で排斥し、言う:

「あなたは私を虐める!」

そして、その後には、離れて行ってしまう(各地を遊蕩するか、または還俗する)。

それはまるで、胆の病気を持つ者が、糖蜜や飴の美味を味わえないのと同じである。

瞋恚と恨みの心に征服された人は、仏陀の教えの美味、すなわち、ジャーナの楽など等を、味わうことができない。

このように、瞋恚と恨みは、病なのである。

3、昏沈と眠気は牢獄に収容されている人の如くである

なにかの祝賀の時に、牢獄に収容されている人は、その祝賀の祝典に、最初も、中間も、最後においても、参加する事ができない。

次の日に彼が牢獄から出て来た時、人々が「ああ、我々は昨日、祝賀の祝典で、楽しく遊ぶことができた。ああ、あの美しく、妙やかな舞踏と歌声!」と讃嘆する時、彼は返事をすることができない。

どうしてか?

というのも、彼はその祝賀の祝典に参加していないのだから。

同様に、昏沈と眠気に征服された比丘は、仏法が色々な方法によって開示されている時、彼はそれの初め、中間、最後を知ることができない。

開示が終わって後、彼は他人が:「ああ、なんと佳い仏法の開示!なんと佳い弁論と比喩!」と称賛するのを耳にしても、答えることができない。

どうしてか?

というのも、彼は昏沈と眠気に征服されて、仏法の開示から利益を得ることが、できないのである。

このように、昏沈と眠気は、牢獄に閉じ込められた人と見做すのである。

4、掉挙と後悔は奴隷の如くである

奴隷は、祝賀の祝典のうちに楽しんでいても、その途中でこう言われる:

「ある事柄が発生したので、お前が行って、解決しなければならない。早くいって仕事をしろ!言うことを聞かなければ、私はお前の両手、両足、両耳または鼻を切り落とす!」

故に彼は、急いで仕事をしなければならず、祝典の初め、中間、最後を楽しくむ事ができない。

どうしてか?

というのも、彼は他人に服従しなければならないからである。

同様に、戒律に通暁しない人が森林で隠居する時、小さな罪を犯すかもしれないし、また許されている肉食(たとえば、鹿肉、羊肉)を許されていない食肉(人肉、象肉、馬肉、犬肉、蛇肉、獅子肉、虎肉、花豹肉、黒豹肉及び熊肉。比丘はこの10種類の肉を食する事は許されない)だと思うかもしれない。

その時、彼は隠居の計画を放棄しなければならず、隠居の楽しみを享受することができない。

どうしてか?

というのも、彼はすでに、掉挙と後悔によって征服されたからである。

このように、掉挙と後悔は奴隷の身であると、見做すべきである。

(5-23につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>