Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

☆「掌中の葉」(翻訳文)5-23

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

5、懐疑蓋は荒野の道を歩むが如くである

ある人が、荒野の道を歩いている。

彼は、そこには盗賊がいて、強盗や殺人をするには、もってこいの場所だ、ということを知っている。

故に、木々の枝が揺れる音を聞いたり、鳥の鳴き声が聞こえただけで、慌てふためき、怖くなってしまい、心の中で想う:「盗賊が来た!」と。

憂慮と恐れを感じるために、彼は少し歩いただけで、後ろを振り返る。彼が立ち止まった所は、彼が歩いた所より多い。

こうして、幾多の辛苦を経て、ようやく安全なる地に到着するか、または元々、行き着く事もできないでいる。

同様に、もし、人が八つの事柄、すなわち、仏陀、仏法、サンガ、戒・定・慧の三学、過去世、来世、過去と来世、縁起に対して、疑問を感じるならば、彼は:

仏陀は本当に円満に覚醒したのか?」と

疑問を感じるようになり、そのため、(+修行や仏法を)確信を持って受け入れることができなくなり、故に、聖道に立ち登って、聖果を得ることができない。

それはまるで、荒野を行く旅人のようである。

というのも、旅人は、盗賊の存在を疑いながら、常に猶予して決心することができず、驚き慌てて信心(=確信)が欠けるため、己自身にとって、安全な場所に到達する為の、障礙となっている。

同様に人々は、上述の八つの事柄について猶予し決心することができず、驚き慌てて信心(=確信)に欠けるために、己自身にとって、聖者の境地に到達する障礙を作り出している。

このように懐疑は、荒涼とした道を歩むが如く、と見做される。

しかしながら、彼の心内の五蓋が滅し除かれた時、彼は債務を返済し終わり、健康で無病、出獄し、奴隷ではなくなって、(+その結果)安全の地に到達した、と見做すべきである。

整理すると、五蓋には、以下のような不利益がある:

1、心が五蓋に征服されるとき、彼は、なしてはいけないことをなし、しなければならない事柄を疎かにする。

彼の名誉と快楽(=楽しい事)は、損なわれてしまう。

(≪増支部・四法集・第61経≫)

2、この五種類の不純な雑質は、心をして、コントロールを受け付けなくさせ、(+心の)明晰さと安定性を欠き、雑染を取り除くための専注をできなくさせる。

これが五蓋である。

(≪増支部・五法集・第23経≫)

3、五蓋は一種の障礙であり、それは過度の(+バランスを欠いた)心を引き起こし、智慧の生起を妨害する。

(≪増支部・五法集・第51経≫)

以上の障礙を思惟した後、もし、邪悪な不善心がいまだ継続して生起するならば、彼は以下のように実践するべきである:

(5-24につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>