<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
尋(vitakka):
尋の特徴は、心をして、目標に投げ入れるか、または、向かわせる事。たとえば、安般似相などに;
作用は、全面的に、目標に中る事。
故に、禅の修行者は、それに頼り、尋によって、目標に中る、という;
顕現する現象は、心をして、目標に向かわせる、たとえば、安般似相など。
伺(vicāra):
伺は、維持を意味する。その特徴は、持続的に目標を押す、また心をして目標の上に維持せしめる、たとえば、安般似相等;
作用は重複して、相応する名法を目標の上に置く;
顕現する現象は、それらを目標に釘付けにする事。
この二者は、場合によっては、分離できないものであるが、尋は、心の第一次的接触である。
というのも、それは粗く、また始めたばかりなので、まるで鐘を叩いているかのようである。
伺は、持続的に圧することを通して、心をして、目標に釘付けにすることであり、それは、鐘が鳴っているようなものである。
尋は、介入である。最初に心念が生起する時、心に介入し、それはちょうど、翼を震わせて、高みの天空に飛び立とうとしている鳥のようであるし、また、花の香りを感じて、蓮の花に向かう蜜蜂のようでもある。
伺の行為はすなわち安寧で、心に干渉しないで、翼を広げて天空に飛ぶ鳥のようであり、また、蓮の花に向かった後、花びらの上方で、ブンブンと羽を鳴らす蜜蜂のようである。
(5-84につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>