<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
≪増支部・二集≫の註釈に言う:
「尋が生起するのは、心を目標の法に向かわせるためであり、それはまるで、一羽の大鳥が飛び立つために翼を広げて、下方に向かって、空気を叩く動作をするのと、同じである。
というのも、それは合一して、安止にまで、導くからである。
伺の自性は、持続的に圧することで、それはちょうど、当該の鳥が翼を用いて、天空を滑空するのを維持するためにする動作のようである。
というのも、それは目標を持続的に圧するが故に。」
これは、伺が釘付けにする現象に、合致する。
この種の区別は、ジャーナ五分法の中の、初禅と第二禅の間において、非常に明確である。
次に、一つの手で、汚れた金属の盤を持ち、もう一つの手で粉・油とウールの布きれを持って、当該の盤を磨くとき、尋は盤を掴んでいる手、伺は盤を磨く手に相当する。
同様に、左官が棒を用いて輪を回してお皿を造るとき、支える手は尋、動かしている手は、伺に相当する。
同様に、円を描くとき、中心点に固定した針は、心を目標に向かわせる尋であり、円を描いて回る針は、持続的に目標を圧する所の伺である、ということになる。
(5-90につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>