<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
それを聞いた達白は少し驚いて、自分の考えを言うのを忘れてしまったが、一切は思い通り整ったように思え、それ以上、何も言うことはなかった。
アチャン・マンは、物言いたげに彼女に向かって微笑み、彼女の心の中では、もうこの桑畑は彼のものになったのだ、と確信した。
二人の間には、以心伝心に分かり合えるものがあり、ただ、正式な布施のための手続きが、成されていないだけであった。
そうして、達白は跪いて、アチャン・マンに三拝し、彼女の家族全員による供養である、この土地を受け取って貰うよう、請うた。
アチャン・マンは頷いて受け入れ、その後に、彼女の発心を祝福し、彼は彼女に、彼女はこの布施の功徳によって、今後、一生困窮することはない、と保証した。
アチャン・マンの新しい寺院の近くにぬかるんだ低地があり、それを人々は”農々(=ノンノン)”と呼んだ。
故に、寺院の名を、農々寺とした。
達頌が先導して、村民は早速、仕事に取り掛かり、小さな木を切り倒し、竹を集めて、茅葺小屋を作り、サンガに寄贈した。
アチャン・マンは12人の出家者だけ、雨季の期間農々寺に住むことを許可し、残りの僧侶たちは、何組かのグループに分けて、坎差伊県の、各地の村落に、留まるようにした。
アチャン・マンは、あえて弟子たちを、異なる地域に派遣したが、彼の住まいとは、あまり近すぎず、しかし、それほど遠くもなく、禅の修行で問題が起きた時、すぐに彼に会いに来れる様、配慮した。
このようにすれば、全員の利益になった。
というのも、大勢の僧侶が同じ場所に住むと、お互いがお互いの、妨げになるからである。
農々寺の茅葺小屋は小さかったけれど、大殿は5、60人の僧侶が集まって、集会を開けるものでなければならなかった。
というのも、布薩日(=ウポーサタ)に、戒律を詠読するために、これほど多くの僧が、集まってくるが故に。
その為、村の経験豊富な年配者が、自ら工事の進捗を監督し、建築物の安全性を確保した。
彼らは先に、硬木を切り倒し、磨いて柱や梁にした。その後に柱を地中に埋め込み、床を敷いた。
床は、地面より一メートル程高くした。
それは、雨季になって、洪水がやってきた時に、水害の影響を避けるために、であった。
農々寺で安居入りの法会が執り行われた時、大殿は、地域の在家信者で一杯になり、大殿に入りきれない人々は、庭に蓆を敷いて座った。
達白は、人々と共に座り、高座に座ったアチャン・マンが仏法を開示するのを、一緒に聞いた。
アチャン・マンは布施の功徳から説き始め、達白は、己の布施によって、舞い踊りたくなるような嬉しさに満ちた因縁を成就した事で、心内に暖かいものが流れるのを、止める事が出来なかった。
(3-22につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>