<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
8-8-4-4 ≪無礙解道≫の解釈
≪無礙解道≫にも、この事に関する説明がある:
彼は如何にして「私は(息の)身行(=息の全体)を静めて息を吸うべきか?私は(息の)身行を静めて息を吐くべきか?」
吐く息が長い・・・吸う息が長い、カーヤ(=直訳は身、ここでは息の事)に属する息全体を体験する:
これらとカーヤとが相関する法は、息の身行である。彼は、それらの息の身行の平静、停止、静止などなどを修習する。
彼は身体をして、完全に静止せしめて、不動を保持し、息が徐々に、更に微細に、更に柔軟になるようにする。
息が静かになる事によって、それは更に微細になり、最後には、観察することができなくなる。
この時、どうするのか?
註釈では、鐘の比喩を出している:
鐘を鳴らすと、その始まりの音は、粗くて顕著で、心はそれにしたがって生起する。
というのも、粗くて顕著な音の相は、すでに認識され、すでに注目され、すでに察知されたが故に。
粗くて顕著な音が止まると、次に続くのは微弱な音であり、心もまたそれに従って生起する。
というのも、微弱な音の相は、すでに認識され、すでに注目され、すでに察知されたが故に。
微弱な音が音が止ると、心もまた、それに従って生起する。というのも、それは微弱な音の相を目標として取るが故に。
(5-99につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>