<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
8-8-6 五支の具備
「尋」は、心を目標に向かわせる事である。
「伺」は、心を目標に保持し、釘づけにする事である。
精進が成就する事によって生じるのは「喜」で、それは心を清々しくする。
心の精進とは、すなわち、諸々の蓋によって散乱させられることがなくなって、成就を獲得した事を言う。
「楽」もまた、同様の原因であるが、それが強化されたものを言う。
この、向かわせる、釘付けにする、清々しさと増強した力による協力の下に生じた「一境性」は、心及び、それに相応する名法を安定的に、正確に、目標の上に置く。たとえば、安般似相である。
故に、初禅の五支の具備とは、尋・伺・喜・楽・一境性という、この五支の生起を言う事を、理解するべきである。
この五支が、すでに生起している時に初めて、ジャーナが生起した、と言える。
これが、どうして、それらが五具備支と呼ばれるのかという理由である。
このことから、ジャーナはそれらを擁するかもしれないと仮定する事は出来ないことが分かる。
それはちょうど「四支の軍隊がある」「五支の音楽がある」「八支の道がある」という時、純粋に「支」という言葉でそれらを表現しているが、同様に、それは「五支を具備している」という時、これもまた純粋に、「支」という言葉で表現するのである。
この事はすなわち、五禅支の一つづつ、それぞれは禅支と言い、全体を合わせて初めてジャーナと言うという事を意味している。
実際は、五支は、近行定の刹那にも存在しているが、また、普通の心にあるものより強い。ジャーナの段階では、それは更に強く、色界の特徴を獲得している。というのも、この尋が生起する時、非常に明晰に、心を目標に向かわせるし、伺は、非常に強烈に心をして目標につなぎとめるし、喜と楽は全身に遍満する。
故に「彼の身体の、どこの部分においても、喜と寂静が遍満して、楽が生じる」(≪長部≫)と言われるのである。
一境性もまた、目標と完全に接触することを原因として、生起する。
一境性は、前述の経文の中の諸々の支の中には含まれていないが、たとえ「尋有り、伺有り」の経文であっても、しかし、その後に続く≪分別論≫において、「ジャーナ:それは尋・伺・喜・楽・一境性である」とうたわれているのである。
故に、それもまたそれらの中の、一支なのである。
世尊が、これらの事柄を簡単に述べるその意味は、彼がその後に詳細に解説するものと同じなのである。(《清浄道論》)
(5-102につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>