Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-34

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

天人に、各種の福報があるとは言っても、しかし、積極的に向上しようとする意欲に欠けている為、彼らは善を修して、己の寿命を延ばそうとはしない。

その為、ひとたび、福報が尽きると、彼らは人間界に降りる事を希望し、人間界において、善良な性格によって功を奏せしめ、善を修して、福徳を蓄積したいと考える。

劣悪で困難な悪循環に陥って、悲惨な応報に遭遇している亡霊とは違って、天道の衆生は、善の果報を、享受している。

そうであっても、一つの事柄については、天人とその他の衆生は、異なる所がない:

すなわち、彼らもまた、感情の執着というお荷物を背負って、止まることを知らない輪廻の中で、解決の道がみつからないでいる。

一つ強調しておきたいのは、これら天道・鬼道などは、心霊の領域を言い、物理的空間ではない、という事である。

故に、天道は、比較的 ”レベルが高く”、比較的密やかで妙やかであると言い、鬼道は相対的に ”レベルが低い” という時、それは心識の高低を言うのであって、物理的空間の高低を言っているのではない事に、注意して欲しい。

”上に向かって” ”下に向かって” と言うのも同じで、それは世俗の言語を用いて、色身の移動を言うのであり、意識の流れる方向は、この表現とは同じものではない。

意識流の微細な動向は、世俗の理解を超えている。

物理的な上下移動には、出力が必要であるが、心が向かう所の比較的 ”高い” または ”低い” 意識の領域は、力を必要としておらず、 ”高低” は、ただの比喩に過ぎない。

天人と梵天は、下から順に、階層をなす世界だと言う時、字面のままに理解して、高層ビルのような、低きから高きへと登って行くイメージを、持ってはならない。

これら天界は、意識的レベルでの存在で、上に向かってという時、それは心の意向であり、心の意識流をあるレベルに、すなわち、更に微細なレベルの波動に、合わせる事を言う。

こうしたことから、上に向かってというのは、一種の比喩であり、心の意向なのであるーー心は、布施、持戒と禅定を学ぶ事を通して、この種の、意識流を調整する能力を育成し、獲得するのである。

我々は、地獄が ”下にある” と言うが、それは物理的空間の下方を意味するのではなく、心が、ある種の心霊の目的地にチャンネルを合わせ、チューニングに成功した、ということなのである。

これら、天国と地獄を見る能力を持っている人たちは、心の内に存在する機能によって、この事を成し遂げているのである。

サマーディの奥義に深く入る事の出来る禅者にとって、心霊の交流は、普段の日常的な経験と何等、変わる所は、ない。

情報の要点は、意識流の中から生起し、心霊の言語によって、完璧な概念として、伝達され、それを受け取る人は、明晰にその内容を理解することが出来、それはまさに、普通の言語で交流しているのと、同じなのである。

一波毎の意念流は、直接心内から出て行き、その時、同時に伝達されるものは、心において、真実に感受した内容や、正確な意味も含まれており、その為、更に一歩踏み込んで、その内容を解説する必要がない。

日常使われる言語もまた、心の媒介であるが、しかし、心内の真実の感受を表現する事が出来ない上、内容を正確に伝達する事も難しいため、誤解を招きやすい。

心と心の直接的な交流においては、このような食い違いは、生じる事がない。

(4-35につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>