<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
仮使你忽略培養内在的念和慧、
(もし、内なる念と慧を育成する事を疎かにし)
不肯痛下苦功、
(辛く苦しい修行から逃れるならば)
那麽你修道上的障礙会越積越多、
(修道上の障礙は益々多く積み重なり)
到最後遮蔽所有的出路、
(最後にはすべての出口が塞がれ)
永遠堕入黒暗之途。
(永遠に暗黒に堕ち込む事を免れない)
還俗
アチャン・カンパンは、修行者の模範であり、皐山寺の大衆の道心を、激発した。
彼は、女性たちに、日常的に、修行を指導したが、それは常に、メーチ・ケーウたちと接触する事を意味した。
アチャン・カンパンは、集会を開き、女性たちの悩みを聞いて、それぞれの事柄に関して、相応の意見を述べた。
彼の年齢と、人格が高潔で、名声高い地位に鑑みて、その他の女性たちと、世俗的感情的な確執は、起きるはずがなかった。
しかし、遺憾な事に、人の性(サガ)とはそれほどに脆弱で、道心が誘惑に負けてしまった!
メーチ・ケーウたちが、ノーックラパ洞に行った後、何人かの尼僧は、皐山に残った。
アチャン・カンパンは、己の指導者である所の身分を無視して、その中の一人に、愛憫の情を起した。
彼の深い定は、その他の衆生の状況を観察し、調査する事はできたが、智慧の修行、己の本性を返照することを疎かにした。
彼は仏法の本質を忘れた:
己の心身の本質を徹底的に観察する事、それらの無常・苦・無我を徹底的に観察するという修行を怠ったのである。
甚深なる禅定の中で、心身は合一して一念になる:
心の能知(=知る能力)の本質は、純粋で単純、不動で静かであった。
この一心の境界は、微妙であり、形容しがたい純潔な調和があり、喜悦に満たされる為に、人をその中に惑溺させることがあった。
しかし、この禅定の境界がいかに純潔であろうとも、依然として、貪・瞋・痴に汚染されており、この定の境界の本質は、世俗を超越しておらず、故に、その中で得られる知見は、世俗の智慧であり、必然的に汚染が含まれているものであった。
(4-40につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>