Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-39

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

仮使你忽略培養内在的念和慧、

(もし、内なる念と慧を育成する事を疎かにし)

不肯痛下苦功、

(辛く苦しい修行から逃れるならば)

那麽你修道上的障礙会越積越多、

(修道上の障礙は益々多く積み重なり)

到最後遮蔽所有的出路、

(最後にはすべての出口が塞がれ)

永遠堕入黒暗之途。

(永遠に暗黒に堕ち込む事を免れない)

還俗

アチャン・カンパンは、修行者の模範であり、皐山寺の大衆の道心を、激発した。

彼は、女性たちに、日常的に、修行を指導したが、それは常に、メーチ・ケーウたちと接触する事を意味した。

アチャン・カンパンは、集会を開き、女性たちの悩みを聞いて、それぞれの事柄に関して、相応の意見を述べた。

彼の年齢と、人格が高潔で、名声高い地位に鑑みて、その他の女性たちと、世俗的感情的な確執は、起きるはずがなかった。

しかし、遺憾な事に、人の性(サガ)とはそれほどに脆弱で、道心が誘惑に負けてしまった!

メーチ・ケーウたちが、ノーックラパ洞に行った後、何人かの尼僧は、皐山に残った。

アチャン・カンパンは、己の指導者である所の身分を無視して、その中の一人に、愛憫の情を起した。

彼の深い定は、その他の衆生の状況を観察し、調査する事はできたが、智慧の修行、己の本性を返照することを疎かにした。

彼は仏法の本質を忘れた:

己の心身の本質を徹底的に観察する事、それらの無常・苦・無我を徹底的に観察するという修行を怠ったのである。

甚深なる禅定の中で、心身は合一して一念になる:

心の能知(=知る能力)の本質は、純粋で単純、不動で静かであった。

この一心の境界は、微妙であり、形容しがたい純潔な調和があり、喜悦に満たされる為に、人をその中に惑溺させることがあった。

しかし、この禅定の境界がいかに純潔であろうとも、依然として、貪・瞋・痴に汚染されており、この定の境界の本質は、世俗を超越しておらず、故に、その中で得られる知見は、世俗の智慧であり、必然的に汚染が含まれているものであった。

(4-40につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>