Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-40

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一粒の、サマーディの中にあり、単純で合一した心は、非常に奥深く微妙で、清らかで透徹していて、力がある。

ただ、この専注する心を、観の修行に用いてこそ、出世間の智慧を証得することができる。

ただ、徹底的に、身、受と心を観察する事においてのみ、貪・瞋・痴を根ごと引き抜くことができる。

一切の現象は皆、無常であり、空であるという本質を悟得し、そのことによって執着を断じた時に初めて、生死に流転する輪廻を、打ち破ることができる。

禅の修行においては、定と慧は必ず相い補うものでなければならず、それは、牛車の両輪が、同じ目的地に向かって、回るようなものである。

定の静けさと専注は、智慧をして、特殊な方便でもって、観を修することを可能にし、微細な煩悩に滲み込み、かつ、それらを逐一、消し去っていく。

智慧が、煩悩を消し去った後、定は更に深まる。

故に、定と慧は、捻転しながら強化され、仏道において、禅者を覚醒へと導いていく。

サマーディの純粋な境界から出て来て、アチャン・カンパンは出入口を抜けて、各種各様の心霊のエネルギーの世界に行き、外に向かって、これらの微細な領域を、専注した。

彼は、心の内部にある、透徹した清らかさを利用して専注する事、鋭利な定力でもって、己の実相を観察する事、心身五蘊の執着を観察する事を怠った。

彼が解脱智慧によって、荒々しい、俗的な本能を防御することをしなかった為、彼は依然として淫欲にまみれ、無明煩悩の貪染に繋縛されていた。

メーチ・ケーウが、ノーックラパ洞から戻った時、アチャン・カンパンとその新参の尼僧との恋愛は、すでに皆の周知される所のものとなっていた。

しかし、彼の、団体の中での長老の身分や、またこれまで尊敬されて来た、その名声に鑑み、僧と尼の二衆は、彼の不当な行為を非難するのを、遠慮した。

彼らは、倫理に悖る恋愛が、早急に終わりをみて、状況が落ち着くのを待とうと、内々に相談した。

故に、アチャン・カンパンが突然、その尼僧と共に、戒を捨てて還俗する事を決めたと宣告した時、皆は大いに驚愕し、悲しんだ。

メーチ・ケーウと他の女性たちは、彼の指導を信じ受けて、実践していたが、今、彼自身がこれらの教えから乖離したのを見て、メーチ・ケーウは深く失望した。

(4-41につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>