Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-45

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

己の禅修行におけるレベルの低下に、メーチ・ケーウは怒り悩んだが、しかし、何をどのようにするべきかは、分からなかった。

ある日の夜、彼女は禅を行している時、突然覚醒して、己自身を責め始めた。

その時、雨が降り出したが、彼女は敢えて雨を避けないで、一晩中大雨の中で経行し、いつも自分が正しいとする独りよがりな己自身の態度を、思いっきり罰する事によって、己の愚かさと無知を償った。

彼女は何度も、己の誤りを点検し、己の心の頑迷さの理由を探した。

アチャン・コンマは、正しい道を指し示してくれたのに、彼女はそれを受け入れなかった。

今、彼女は、己の確信が不合理なものであり、必ず糾さねばならないものである、と知った。

彼女は自問した:

真理を追究するための心が、これほど愚かで無知であるならば、私はどうやって、真理を知ることができるのだろうか?

次の日、メーチ・ケーウは重々しく仏前で礼拝し、真心から己の過ちを懺悔し、心の中でアチャン・コンマに許しを乞い、今後は決して、自分勝手な行動を取らない、と誓った。

仏偈を念誦して心を摂めた後、彼女は則に従って、観身の法門の修行を開始した。

メーチ・ケーウは、身体の穢れと悪心の特徴を観察した。

彼女は先に、生きている人間の身体が、明確に嫌悪され、かつ、倦まれる状況を思惟した;

鼻孔には鼻汁がある;

耳には耳垢がある;

皮膚は汗をかき、油脂を分泌する;

身体は大小便を排泄する;

その上、もし清潔にしないならば、臭くなって、人に嫌がられる。

メーチ・ケーウは、このように持続的に修行する事を通して、理解し、かつ納得するようになった。

己の大部分の不安の源は、身体を生命の存在の核心だと執着すること、また身体を己の存在の最も重要な相であると執着することにある事を。

この観念は、日常生活の意識の中、また気持ちの中では、余り明確ではないが、しかし、深層の部分と、本能の意識のレベルの根深い所で、その作用を発揮した。

この本能は、日常生活すべての場面において、非常に強固な、自我感として顕現した。

彼女は、我々が生活する所の数々は、みな、身体的な欲望と関係していて、我々は常に、見かけ、服装、面子、個人の快適さに関心を向けている事を発見した。

身体の不浄の本質を観察する事を通して、メーチ・ケーウは身体の穢れと悪心、無常に変化する一面を体験し始め、二度とそれらに誘惑される事はなかった。

毎日、かくの如くに修行して、彼女は徐々に、身体に関わる執着を離れ、色身によって生起する強烈な自我感、エゴを軽減した。

(4-46につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>