wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-102

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

8-8-6-1 喜と楽

喜(pīti)と楽(sukha)と、それらに相応するジャーナ名法は、同時に生起する。

それが依存するのも又、有分(意門)が依存する所の、心所依処である。

しかし、それらは身浄色に依存して生起することはなく、故に、それらは、全身に遍満することはない。

しかし、経の中では:

「彼の身体は、いかなる部分においても、喜が遍満し、寂静が楽を生じて、遍満しないという事はない。」という。(≪長部≫)

これは、比喩的な言い方である。

この句の、本当の意味とは何か?

喜と楽を含む、五禅支に相応して生起する初禅心は、多くの代の心生色を生じせしめるが、これらの色法は、色聚と呼ばれる、微細な粒子の形態で生起する。

ジャーナ心は広大な心である。

一つのジャーナ心は、非常に多くの色聚を生じせしめることができる。ジャーナ心が広大心であることから、生じる色聚もまた、優れた色聚であり、全身に遍満する。

これらの色聚の触塵、すなわち、地界、火界と風界は、同じく全身に遍満する身浄色に、ぶつかる。

身識と相応する楽身受の、その生起する原因は、身浄色、触塵と身識という、この三つの法が結合して生起するのである。

ジャーナの喜楽は、ただ単に心所依処に依存して生起し、身浄色には依存しない。

触塵が同時に、身門と意門(有分)の二つの門にぶつかる時、禅修行者は、身体と心の楽受を、体験する。

しかしながら、それはただ彼がジャーナから出て来てから、(省察してから後に知る)事である。真正に初禅に安住している人は、楽受に注意を向けないが、しかし、彼はそれでも、名と身体が相応する喜楽を、感じることがあり、また出定の後に、喜楽を感じることもできる。

というのも、彼の名と身体は、ジャーナの名と身体に相応する喜楽によって生起した、極めて優れた色に影響されるからである。

これらのジャーナ法は、決して、全身に遍満している訳ではないが、しかし、それらが生じせしめる、極めて優れた色が、全身に遍満して、そのために、禅修行者は:

「私の身体は、どの部分においても、喜の遍満していない所はなく、寂静によって楽の生じていない所は、ない」という。

故に、あなたは、喜楽に関するこのような説明の仕方は、一種の比喩なのだ、という事を理解する必要がある。

ジャーナによって生じた所の、優れた色が全身に遍満し、そのため、前述した所の、身体の楽受もまた、全身に遍満して、生起する。

しかしながら、我々は、これらの「受」の生起は、ジャーナに相応する喜楽が原因である、という。

生じた所の優れた色、これらの優れた色の触塵は、すなわち、身処とぶつかるという事を通して、生身における楽受を、生じせしめるのである。

(5-103につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>