Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-16(170/244)

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

彼女の禅修行がすでに、正道に安住しているのを見て、アチャン・マハブーワは、彼女の詫びを、優しく受け入れた。

彼は彼女に、彼女の心眼が、亡霊を見すぎた為に、彼女の意識流が随意に流れだし、彼女をして、鬼神の思惑通りに生活する事を余儀なくされ、その為に、心の内に作り出した幻像の、奴隷になっていたのだ、と説明した。

意識を回転させて、己自身に向けさせよ。

そして、一時、その勢いに干渉し、心をして、内在する、能知(=知るもの)の本性に、戻らせしめよ。

意識は、心性の働きではあるが、しかし、意識の活動は無常に変化し、心における、固有の素質である覚知に欠けている。

意識の状態は、それを知っている所の覚知とは、同時に存在するが、しかし、心の核心とは、この覚知の根源なのである:

意識の流れの中で、無常に生・滅する心境は、ただ、有為なる現象にしかすぎず、そして、心の本性は有為法ではない。

それは、唯一、不変なる、真実なのである。

意識は、自然に、心の核心から流れ出てきて、中心から表層へと、向かう。

表層の意識は、貪・瞋・痴の風に吹かれて揺れ動き、形相(形と相)と内容は、不断に変化する:

しかしながら、心の本性は、活動する事はなく、何等らの状態も、顕現する事はない。

ただ、純粋な覚知として、それはただ、<知っている>だけなのである。

本性から生起した活動、たとえば、物質世界や、または心霊世界を覚知するいう事は、心の意識状態を、源としている。

意識は、心理的活動であり、また心理的状態でもあるが、その本質は、不断に生・滅する無常なるものである。

故に、意識のレベルでの覚知は、常に不安定で、頼りにならないのである。

(5-17につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>