<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
心が、周縁の取り巻き的な思想(=考え)と感情に干渉されないでいれば、完全に、心の知覚の領域に専注する事ができ、憶測や想像の影響を受けず、知覚の領域の中で生起した現象を、真実に基づいて、観察する事ができる。
これは、観の修習における、重要な原則である。
このように、善くて巧みに観を修習するならば、修行は順調に進み、憶測の干渉を受けたり、または憶測に誤って導かれる事がなくなり、真の智慧によって深く、探索、思惟と理解が、進むのである。
メーチ・ケーウが、意識によって生起する境界に相応じて後、非常に長い時間が経っている為、心の本性に対しては、日ごとに、益々、疎遠になっていた。
故に、この本性を、直接体験する必要があったのである。
しかしながら、心性を体験する事は、一種の方便にしかすぎず、それは究極ではなく、心をして、大きくて粗い障礙から離れさせる為であり、さらなる、次の修行にとっての、よき基礎を打ち立てるものであった。
アチャン・マハブーワは、警告した。
心性の体験をしたせいで、あなたは、意識的な知覚によって生起した知識に対して、誤った自信、錯覚的な自信を持ちやすくなる。
故に、心から流露する、一切の事柄を、子細に検査する必要がある。
毎回、定から出て来ると、あなたは、意識の活動を点検し、妄想が残して行った汚染を、点検しなければならない。
これらの妄想は、色相(=形)、イメージと造作と関連する執着によって造られるものである、と。
アチャン・マハブーワは、メーチ・ケーウに、心にしっかりと絡み付いている煩悩を、徹底的に、根ごと取り除けるように、このような、己の心を深く探索する方法を教えた。
彼は、何度も繰り返した。
これは仏法の最も重要な要であるーー仏法の要は、世間の色々な現象を知る事には、ない。
人の心は、自然・当然に、色身に執着する。
故に、彼は、彼女に、先に、全幅の心力をもって、色身への迷いを解決するように、と促した。
彼は、慧の修行は、身体から始めるべきであると注意を喚起した。
その目的は、直接、色身の本質を、見通す事にあった。
彼は、彼女に、観身の法門を修行する時、自在な観察力を運用して、慣性・習慣による解釈、憶測や推測による意識の分別・判断に、堕ちこまないようにするべきだ、と教えた。
意識と心の核心が合一した後には、清明で汚染のない覚知が生起するが、観の修習は、必ず、この覚知を用いて、観察するのでなければならない。
自在な運用による内観を顕現させる為には、先に、日常的な思惟と想像を、調伏しておかなければならない。
言い換えれば、心の中に生起するイメージに対して、如実に観察するべきで、概念を加えて分別、判断してはならない。
もし、彼女が意識でもって分別し、これらのイメージに命名するならば、通常の世俗的な心理的な条件反射の作用によって、妄想が生起し、その為に、各種の混乱が起き、真正なる内観とは、180度異なってしまう。
清らかで明晰な覚知は、あるがままに、自在に現象を観察し、観察の対象からの束縛を受けず、智慧のまったき、あの自然な、無礙なる清明(=清らかで明晰な事)を、証する事ができるのである。
(5-20につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>