<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
メーチ・ケーウは岸辺にいて、その光景に見入っていたが、突然、身体が一片の雲のようになって、空中に舞いあがり、湖面を漂い、あの鴨の上方まで、漂いついた。
彼女は、足を広げて、鴨の背中に跨った。
彼女が跨るや否や、彼女と鴨は一体となり、その刹那、彼女は自分が鴨であると意識した。
その後に、彼女は定から出て来て、通常の意識に戻った。
メーチ・ケーウは、この神秘的な禅相を、何日間も思い出して、その中に含まれる、重要な意味を思惟した:
金蓮花は、法宝ーー仏教の聖道の要ーーの布施・供養の象徴である。
金は、光、心光を意味している;
花は、心の光が、豊穣の盛りとなって、放出される事を、意味する。
彼女は、四つの花びらは、四聖道を意味しており、それは、阿羅漢果に向かう道の上の、四つのキーポイントとなる位階である、と領悟した。
あのホオジロ鴨のように、メーチ・ケーウは、智慧と光明を顕した:
彼女は、この一生で、聖道を完成させて、涅槃を証得するであろう事を、知ったのである。
メーチ・ケーウは、心を内に収めようが、外に向かって意を向けようが、意識は常に、覚知の一刹那毎に及んでいる事を、知っていた。
彼女が体験した一切、そのどれもが、意識の外にあるものは、一つもなかった。
すべての、己が捉えたもの、想像したもの、及び経験によって得た現象は、意識があってこそのものであり、言い換えれば、心識の外に、独立して存在する現象は、ないという事である。
故に、身体への覚知は、意識の固有の機能だ、と言える。
根本的に言うならば、彼女の観身は、内在化した身体を見ており、この内在化した身体は、身根が取得した所の、心理的映像に過ぎない。
意識は、自然・当然に、身体全体に遍満しており、身根と交錯して、覚知の作用を引き起こす。
身体感覚ーー身体を自我、己自身だと見做して執着する事ーーは、主に、身根によって引き起こされる心理現象であり、その上に、深くて微細な執着(色相と自我の執着)による偏見によって、構成されているのである。
(5-29につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>