wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-29

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

メーチ・ケーウは、自在に運用される心態(=心の状態)と、執着を離れた心態でもって、専注する時には、身体をば、内心に顕現する、意識の産物である、と見做した。

しかしもし、色身がただ四大の聚合したもの、暫定的に組成されたものに過ぎないのであれば、身体感覚というものは、一体どこから来るのであろうか?

また、身体が腐乱して、分解される自然・当然な過程を見て、それを不浄であると思いなす発想は、どこから来ているのであろうか?

あの、極度な嫌悪感は、どこから生起しているのであろうか?

メーチ・ケーウは、内在化した身体の腐敗に専注したが、彼女は特に、それらと同時に生起する所の、現象に対しての、好ましいとか、好ましくないとかの念頭(=考え、発想)と感情に、注意を払った。

この時、彼女は偏見のない、執着から離れた心態で観察をして、分別心をして、この最初の概念(=最初に生起する概念)に対して、自由に扱うようにさせ、その後に、概念の解釈に対して、反応した。

彼女は、六根からの見返りと、心内の思量と識別によって、己のこの身体を、認識することができた。

しかし、彼女は、その次に、これらの概念は、好いか悪いか、善であるか、悪であるかに関わらず、己が感受するという事・・・また、心はなぜ、これらの影像を創造するのか・・・また、心はどのようにして、これらに意義を付与するのかという事を、理解する必要があると思った。

修行がこの段階まで来ると、メーチ・ケーウは全神経を集中して、観身によって引き起こされる、感情的な反応に、傾注するようになった。

彼女は、この時すでに、意識に介入する勢い(+のある力)、意識の進展に逆行する根源に、精通していた。

故に、彼女は同様の技巧を用いて、念頭(=考え、発想)と感情の流れの逆行に向かい、それらの進展の根源を、追跡し始めた。

彼女は、身体の深い所での、腐敗の影像に専注し、直接影像を摂取し(=受け取り)、概念・思考を、生起させなかった。

自在に運用する覚知と、明確な洞察力を統合して、一つの作業に専念した所、彼女は、嫌悪感の本能的衝動が、心内の深い所から弾き出て来て、映像の中に浸透するのを見た。

彼女は、この映像が、覚知の中で、能知(=知るもの)と影像が、合一するまで待った;

その時同時に、映像と感情は徐々に、内部に向かって収縮し、両者共に、そのすべてが意識心の中において溶融し、その後、徹底的に跡形もなく、消失した。

彼女は即刻、もう一度改めて、映像と、それに伴って齎される嫌悪感に専注し、再度、過程全体を観察した;

認知は形成され、感情の衝動と影像は融合し、それは、その根源と意識の中心に戻って合一すると、その後に、消失した。

彼女は、このように観察すればするほど、映像と感情は、益々自然・当然に顕現すると同時に、それは、縮小して行った。

最後に、作意する必要もないまま、映像と感情は、己自身で心の中に戻ってきて、それらの根源に戻り、かつ、即刻、その場所で消滅した。

(5-30につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>