<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
影像の生起と消滅は非常に速く、故に、外部の、または内部の概念とは、相関する事がなかった。
最後には、形相(=姿かたち)は、意識の中において、閃きながら生・滅したが、その速さは、映像の意味を識別する事が、出来ない程であった。
一つずつが、滅し去るに従って、覚知は、更に深い<空(クウ)>ーー映像においての<空>、対象への執着への<空>を、体験した。
一つの極端に微細な、純粋的知覚の核心が、この時、心中に突出し、顕現した。
一つずつの新しい映像は、閃いては滅し去り、心は更に深い所で、それが齎す<空(クウ)>を、感受した。
これ以降、メーチ・ケーウの心は、微妙な空(クウ)と清らかさと明晰さの中にあり、色身は存在していても、彼女の覚知は、空(クウ)そのものであり、いかなる映像も、心の中に留める事はなかった。
この内観は、メーチ・ケーウをして、翻天覆地(=天地がひっくり返る)の、全体的脱皮を、促せしめた。
彼女は、疑いもなく、以下のような真相に関する、覚醒を得た:
意識流によって生起する映像に対する無知、その結果は、嫌悪または好ましさという、感受を引き起こす。
彼女は、好悪(+という心の働き)は、身体と色相に対して、本能から出てくる所の、微細で察知する事が困難な、歪曲された認知の上に、植え付けられたものである事を知った。
彼女が、認知の真正なる根拠を明らかにし、その正当性を徹底的に覆した時、表象される外部世界全体は崩れ去り、これら認知への執着もまた、滅し去った。
心内で創造された一切の影像が滅し去った後、心の相に対する執着もまた、同時に滅し去った。
心が、ひとたび、一切の感官の紛糾から退出した後、彼女の存在全体が、深くて微細で清浄な感覚に覆われた。
最後には、身体の影像、またそれがただの色相(=姿かたち)に過ぎなくても、メーチ・ケーウの意識の範疇に、存在する事はなかった。
心中に、執着するべき形相がないため、メーチ・ケーウは、己が永遠に、色界に生まれる事はないと、知った。
この時、心内において、常日頃感じていた生理的限界と幻想化した色身は、すべて消え去って見えなくなり、外に向かって伸展し、一切と融合し合ったが、それはちょうど宇宙と一体化したようなものであった。
依存していた一切のものから抜け出して、内において安らいだが、それは無上の<空(クウ)>--清らかで澄み渡り、光り輝く、不動なるものであった。
(5-32につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>