wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-31

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心正常的状態是清浄的、

(心が正常である時、それは清らかである)

心受到外塵汚染才不浄、

(心が外部の塵埃に染まる時、それは不浄となり)

引起傷悲快楽等情緒波動、

(悲しみや楽しみ等の感情の波動が生じ)

不断渲染、

(それが不断に広がって)

直到完全看不到自己的本性。

(最後には完全に、己の本性を見失ってしまう。)

光明の核心

一年が経ち、メーチ・ケーウと共にあるのは、茅葺小屋、経行の道、トウトチノキの下の、小さな縁台などであった。

朝食の時以外、彼女はほとんど、禅修行の実践の場である、この範疇を、離れることはなかった。

尼僧たちは、一周ごとの斎戒日には、依然として、アチャン・マハブーワに会いに行ったが、メーチ・ケーウは、彼女たちと同行する事はめったになく、全精神を禅修行に、集中させた。

そのようではあっても、メーチ・ケーウは、アチャン・マハブーワに対する感謝と敬慕を忘れた事はなく、毎朝、小さな鍋でもち米を炊き、ビンロウを一籠用意して、彼に渡した。

普段、彼女は、一人のメーチに頼んで、己の代わりに彼に供養してもらい、己は、たまには出かけて行くものの、彼に会っても、少し話をするだけで、すぐに、自分の道場に帰った。

アチャン・マハブーワの寺院は、村の東北にあり、メーチ・ケーウの女性専門道場は、村の西南2マイルの所にあって、その間に、卉晒村があった。

この二か所には、それほどの距離があったし、アチャン・マハブーワも、あらかじめ外出の計画を宣告することはなかったが、メーチ・ケーウは、毎回直感でもって、彼が寺院を離れて、付近を行脚しながら、静かな隠れ場所を、探している事を知っていた。

彼が寺院の門を出るや否や、メーチ・ケーウには分かったし、彼が寺院に戻って来ても、メーチ・ケーウには分かった。

彼女が言うには、アチャン・マハブーワが外出する時、彼女は突然、彼女の周りに寒々とした空気を感じ取る、とのことだった。

通常、彼は、何か月も遊行したが、ひとたび戻って来る場合にも、メーチ・ケーウは、すぐに分かった。というのも、彼がいまだ寺院に到着する前から、彼女は、暖かい空気を感じ取る事ができたが故に。

寒気と暖気はすべて、外部世界の現象の形跡を、根門が感じ取ったものであるが、この形跡を知るのは、彼女の心であった。

形相と概念は、意識的活動の制限を受ける。

衆生の心中には、極めて微細な無明が浸透しており、形相と概念を知る所の知覚は、これらの意識が作り出す産物に、執着する。

それを自我と同じと思いなして執着する心は、受、想と行を自我と見做し、この執着は、心をば、一人の人間として、存在させてしまう。

しかし、思想(=考え)と感受は、実際には、心の有為なる作用にすぎず、本性ではない。

本性は、意識に変成し、概念上の、相対的真実を作り出すが、それは究極的な真実では、ありえない。

自我(=自己)というこの相対的な真実は、深くて微細な執着の対象なのである。

(5-32につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>