<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
1-3-3-3 如理作意と覚察力(=察知力)
上述の二点以外に、修行に役立つ二種類の要素がある:
それは、如理作意(すなわち、何かをなす時には、その理由をよく知って、同時に、煩悩を防止する事)及び察知力(すなわち、今現在の修行・行動が正しいか正しくないかを知っている事)である。
この二種類の要素を具足した正しい修法は、明覚(精進、正念、正知)を生じせしめ、最後には涅槃へと導き、かつ、苦を滅する事ができる。
1-3-1-4 所縁の修行
この種の修法の所縁は、粗いかまたは微細な動作である(微細な動作とは、粗い動作が順調に進むように支援する所の、小さな動作の事である。すなわち、姿勢を変えるなど等)。
真正なるvipassanaの修法は、三心を具足していなければならない:
精進、正念、正知である。
如理作意と察知力は、補助的なものに過ぎない。
vipassanaの主要な任務は、貪と瞋を断じ除くことである。(詳細は、第二章、実修の部分を参照の事)。
1-3-1-4-1 色々な人々に適合する念処の所縁
人の分類 適合する所縁
1)愛が強い(欲楽に執着)
慧は鈍 身
2)愛が強い(欲楽に執着)
慧は利(=鋭い) 受
3)見が強い(心を常として執着)
慧は鈍 心
4)見が強い(心を我として執着)
慧は利 法
註:
1)貪愛は、身念処を(+所縁)と(+して修行)する。というのも、身体は、容易に照見できるし、また、身体は不浄であり、厭うべきものであるから、身体を観ずる事は、身体を浄だとして執着する邪見(顛倒妄想)を変える事ができるが故に。
2)心身を楽として、執着する邪見を変える。
3)心身を常であるとして、執着する邪見を変える。
4)心身を我であるとして、執着する邪見を変える。
なお、顛倒妄想とは、
a)身体を浄と執着する。
b)心身を楽と執着する。
c)心を常と執着する。
d)心身を我と執着する、の四項である。
(1-28につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>