Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-27

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-3-3-3 如理作意と覚察力(=察知力)

上述の二点以外に、修行に役立つ二種類の要素がある:

それは、如理作意(すなわち、何かをなす時には、その理由をよく知って、同時に、煩悩を防止する事)及び察知力(すなわち、今現在の修行・行動が正しいか正しくないかを知っている事)である。

この二種類の要素を具足した正しい修法は、明覚(精進、正念、正知)を生じせしめ、最後には涅槃へと導き、かつ、苦を滅する事ができる。

1-3-1-4 所縁の修行

この種の修法の所縁は、粗いかまたは微細な動作である(微細な動作とは、粗い動作が順調に進むように支援する所の、小さな動作の事である。すなわち、姿勢を変えるなど等)。

真正なるvipassanaの修法は、三心を具足していなければならない:

精進、正念、正知である。

如理作意と察知力は、補助的なものに過ぎない。

vipassanaの主要な任務は、貪と瞋を断じ除くことである。(詳細は、第二章、実修の部分を参照の事)。

1-3-1-4-1 色々な人々に適合する念処の所縁

人の分類         適合する所縁

1)愛が強い(欲楽に執着)

  慧は鈍          身

2)愛が強い(欲楽に執着)

  慧は利(=鋭い)     受

3)見が強い(心を常として執着)

  慧は鈍          心

4)見が強い(心を我として執着)

  慧は利          法

註:

1)貪愛は、身念処を(+所縁)と(+して修行)する。というのも、身体は、容易に照見できるし、また、身体は不浄であり、厭うべきものであるから、身体を観ずる事は、身体を浄だとして執着する邪見(顛倒妄想)を変える事ができるが故に。

2)心身を楽として、執着する邪見を変える。

3)心身を常であるとして、執着する邪見を変える。

4)心身を我であるとして、執着する邪見を変える。

なお、顛倒妄想とは、

a)身体を浄と執着する。

b)心身を楽と執着する。

c)心を常と執着する。

d)心身を我と執着する、の四項である。

(1-28につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>