<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(六)受捨は、不苦不楽受であり、これは以下のように形容する事ができる:
「捨具欲界善心が生起した時。」(《法聚論》)
(七)観捨は、観智によって諸行の相を観照した後、観照した所の諸行の相に対して、中捨を保つ。これは以下のように形容する事ができる:
「彼は、存在するもの、既に生まれたものを捨離したが故に、捨を得た。」(《中部》)
当該の経文の意味は:
観智による知見は、各自の因と縁によって生起する五蘊の相による。
すなわち、当該の観智が諸蘊への執着を捨離する。というのも、それは、無常・苦・無我なる諸蘊の禍を知見したが故に。また、邪想、常想など等も捨離する。
(八)中捨性捨は、具生法の効力と同等である:それは、欲(chanda)の始まりである「或任何法」(yevāpanakas)の内に含まれる。
それは、美心の中の具生法のバランスを保持する責任を持つ心所である。
アビダンマによると、中捨性捨とは、美心一つひとつに存在しており、美心にバランスと調和を齎し、心をして、軟弱になったり、動揺する事がないようにする。
一つひとつの、個別の心所としては、中捨性捨は、異なる状況の下において、異なる方式をもって顕現する。
(5-119につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>