Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

「身念処」1-44

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

もし、貪愛が完全に断じ除かれたならば、円満なる涅槃に到達し、阿羅漢果を得る事ができる。

もし、修行者が、貪愛の害を体験・体得できないのであれば、彼は涅槃ーーこれによって、苦を滅するーーに到達する事はできない。

涅槃とは:

「貪瞋痴の三毒の止息であり、非因縁法であり、仏教の最高の教えの証であり、仏法の無上正等正覚であり、最後の解脱であり、すべての煩悩と苦痛の息滅である。」

バンコク大宗派チュラロンコン仏教大学仏学大辞典)

涅槃の特徴は、平静で安らかで、かつ煩悩から遠く離れている事で、涅槃の美しさ好ましさを体験・理解できて、かつ、涅槃を求める人は、世間(五蘊)の苦も体験・体得できる人である。

世間を楽しいと思う人にとって、涅槃は、意義のないものである。

涅槃に到達すれば、再び生まれるという事はなく、それ故に、再び死ぬという事もないし、心身または五蘊を擁するという事もない:(+この時)心身は、もはや、修行の所縁では、なくなる。

涅槃は一個の場所ではないが、しかし、なお、それは存在するものである。

それは風のようで、あなたはそれによる作用を通して、それの存在を認識するしか方法はない。

涅槃は、超凡な、または殊勝な心の所縁であって、この心とはすなわち、道心である。

凡夫は煩悩の中に沈潜しているため、道心は、彼の心の中から生起する事が出来ないーー彼がvipassana を修行する以外は・・・。

というのも、一人の人間が vipassana を修行するならば、心を完全に清らかにする事ができるが、この種の清浄なる心は、道心と言い、道心は、涅槃を所縁とするものである。

涅槃は心ではなく、涅槃は心の所縁であるが、この種の心が、道心と呼ばれるのである。

涅槃を実際に証悟した人は、自知(=己自ら知る)でありーー指導者にそれを、教えて貰う必要は無い。

Vipassana を修行して、実相般若を通して心を道心に転ずる以外、誰も、涅槃に到達する事はできない。

涅槃は苦の止息であり、八聖道を実践する以外、涅槃に到達する方法はないが、涅槃には二種類ある;

1)有餘涅槃(すでに涅槃を証したが、しかし、色身はなお存在している):

これは、煩悩はすでに断じたが、五蘊身はなお、存在している(+という状態である)

2)無餘涅槃(すでに涅槃を証しており、煩悩、五蘊身はみな除かれている):

これは、煩悩はすでに断じられ、色身も死亡した状態。また、般涅槃とも呼ばれる。

(1-45につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>