<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
問:<今・ここ>を観照する三心と、<今・ここ>を把握する三心は、同じものですか?
答:双方共<今・ここ>という呼び名ですが、しかし、<今・ここ>を観照する三心(思慧)と、<今・ここ>を把握する三心(修慧)は、異なるものです。
修行者は、<今・ここ>を把握する為の修習しますが、それは、読書をするには、先に文字を学ぶのと同じです。
思慧は、ABCを学ぶようであり、修慧は(+その次の行為として)本を読むようなものです。
問:修行者は、<今・ここ>を把握する機会をどのように増進させますか?
答:もし、修行者に覚照力(rusuthua)(訳者注:rusuthuaはタイ語である。rusuは感覚、thuaは身体で、故にrusuthuaは、身体感覚と訳すことができる)があれば、彼は彼の周囲にある音や声を余り多く聞かなくて済むでしょうーーまたは聞こえても、強烈には聞こえないでしょう。
座っている色身を覚照する<今・ここ>は、空過(=虚しく、ないもののように過ぎ去る)または、多くの音声を、減少させるでしょう。
このように、<今・ここ>を把握する機会を増進したいのであれば、修行者は、覚照力を高めなければなりません。
問:ある種の姿勢の色身を見たい時、特殊な姿勢を採用する必要がありますか?
答:修行者は、座っている時、座っている色身を見たいが為に座っている、という事があってはなりません。または、歩くのは、歩く色身を見たいが為、という事であってはなりません。
すべての姿勢は、その一つ前の姿勢の苦を対応・退治する為にあります。
そして、座っている色身または歩いている色身が顕現する時、それは自然に見えてくるものなのです。
問:修行者は、<今・ここ>の自然を保持していれば、戒・定・慧を具足している事になりますか?それはなぜですか?
答:修行者は、実相般若によって、座っている色身を照見する時、「粗い煩悩」(戒律で対応する事の出来る煩悩)は降伏されますが、これは<今・ここ>に具足する戒です;
心の煩悩(五蓋)が、一時的にすべて消し去っている場合、これは<今・ここ>において、定が具足している事を、証明しているのです;
最後に、潜伏している煩悩(漏)もまた、一時的に消え去っている時、これは<今・ここ>の慧が証明されているのです。
というのも、実相般若は正見ーー「あなた」が座っているのではないーーを引発する事ができるからです。
(1-60につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>