<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
d)Yonisomanasikara または「如理作意(yoniso)」の意味はすなわち、「個人の注意力を、ある事柄に集中させ、正しい理解をもって、それの因を知る事。」である。
これもまた、ある事柄の実相である。
(1-6-1節の実相に関する詳細な論文を参照の事。)
e)Sikkhati(察知力)。
我々に、<今・ここ>から離れていないかどうかを教えてくれる。
論文:
a)精進とは、煩悩(貪と瞋)を断じ除こうとする気力・根気の事であり、正念正知が(+心を)<今・ここ>に戻るように、支援する。
b)、c)正念は、座っている姿を知っている事。
正知は、この座っている姿勢は、座っている所のの色身である事を、認識している事。
実際には、精進、正念と正知は、<今・ここ>において、それを保持する事によって、色身を観照するものである。
我々は、上記の事を、理解しなければならない。
というのも、多くの修行者は、「彼らが」修行していると思っているが、実際は、三心または明覚が修行しているのに過ぎないのである。
正念と正知は、貪と瞋を取り除くーー実相般若を引発して、無明(痴)を破り除くのである。
如理作意、正念と正知は、思慧であり、正念正知が程よく組み合さって、効力を発揮した時、それは実相般若(修慧)に、転換される。
しかし、如理作意は、依然として思慧に属するものである。
正念正知が、実相般若に転換する時、我々は、正念正知でさえも、「私」ではない事を発見するであろう。
正念正知は、一種の心の状態であるが、それらはまた、無常・苦・無我でもある。
d)「如理作意」は、明覚(三心)を助けて、正しい運用をし、かつ、煩悩(貪と瞋ーー好悪の思い)の生起を防ぐ<法>である。
「如理作意」は、姿勢を変えるのは、苦を治したいからである事を知っており、如理作意は、好き、嫌いの(+思いの)増長を防止する事ができる。
同様に、如理作意と明覚は、座っている色身を認識し、その後に、痛みを感じる時、痛みに対して嫌悪しない。というのも、座っている色身が苦であって、あなたが苦なのでは、ないのだから。
座っている色身から、他の姿勢に転換する時、如理作意は、あなたに、姿勢の転換は、苦を治する為の行為に過ぎない事を教えてくれるのであって、このようであれば(=このことを理解すれば)、新しい姿勢に対する愛着を、防止する事ができる。
如理作意は思慧である;
如理作意は正念正知を導くが、それは、如理作意が、一群の人々を連れて稲田に行き、一たび彼らがそこに到着したとすると、正念は、稲を掴む事に相当し、正知は、稲を刈る鎌という事になる。
座っている時、如理作意は三心を導き、三心は、これは座っている色身である事を知り、如理作意は、導きの役目を果たす。
如理作意は、聞慧より来るが、最初に、座っている姿というのは、座っている色身である事を知るのもまた、如理作意であり、その後に、三心が、座っている姿は、座っている色身である事を知るのである。
我々は、朝に何事かをし始めてから、夜眠るまで、常に、如理作意を用いなければならない。
そうでなければ、正念正知は、正しく運用できないであろう。
最初、あなたは、聞慧によって、座っているは、座っている色身である事を知るが、この時の聞慧は、すなわち、如理作意である。
如理作意は、正念正知が正しく運用されるよう、支援することが出来る。
e)察知力は、我々をして、正念が強すぎて、正知が足りていない状態ではないかどうかに気づかせてくれるが、正念正知は、バランスが取れていなくては、<今・ここ>は、保持できないのである。
(1-62につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>