wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

「身念処」1-61

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

d)Yonisomanasikara  または「如理作意(yoniso)」の意味はすなわち、「個人の注意力を、ある事柄に集中させ、正しい理解をもって、それの因を知る事。」である。

これもまた、ある事柄の実相である。

(1-6-1節の実相に関する詳細な論文を参照の事。)

e)Sikkhati(察知力)。

我々に、<今・ここ>から離れていないかどうかを教えてくれる。

論文:

a)精進とは、煩悩(貪と瞋)を断じ除こうとする気力・根気の事であり、正念正知が(+心を)<今・ここ>に戻るように、支援する。

b)、c)正念は、座っている姿を知っている事。

正知は、この座っている姿勢は、座っている所のの色身である事を、認識している事。

実際には、精進、正念と正知は、<今・ここ>において、それを保持する事によって、色身を観照するものである。

我々は、上記の事を、理解しなければならない。

というのも、多くの修行者は、「彼らが」修行していると思っているが、実際は、三心または明覚が修行しているのに過ぎないのである。

正念と正知は、貪と瞋を取り除くーー実相般若を引発して、無明(痴)を破り除くのである。

如理作意、正念と正知は、思慧であり、正念正知が程よく組み合さって、効力を発揮した時、それは実相般若(修慧)に、転換される。

しかし、如理作意は、依然として思慧に属するものである。

正念正知が、実相般若に転換する時、我々は、正念正知でさえも、「私」ではない事を発見するであろう。

正念正知は、一種の心の状態であるが、それらはまた、無常・苦・無我でもある。

d)「如理作意」は、明覚(三心)を助けて、正しい運用をし、かつ、煩悩(貪と瞋ーー好悪の思い)の生起を防ぐ<法>である。

「如理作意」は、姿勢を変えるのは、苦を治したいからである事を知っており、如理作意は、好き、嫌いの(+思いの)増長を防止する事ができる。

同様に、如理作意と明覚は、座っている色身を認識し、その後に、痛みを感じる時、痛みに対して嫌悪しない。というのも、座っている色身が苦であって、あなたが苦なのでは、ないのだから。

座っている色身から、他の姿勢に転換する時、如理作意は、あなたに、姿勢の転換は、苦を治する為の行為に過ぎない事を教えてくれるのであって、このようであれば(=このことを理解すれば)、新しい姿勢に対する愛着を、防止する事ができる。

如理作意は思慧である;

如理作意は正念正知を導くが、それは、如理作意が、一群の人々を連れて稲田に行き、一たび彼らがそこに到着したとすると、正念は、稲を掴む事に相当し、正知は、稲を刈る鎌という事になる。

座っている時、如理作意は三心を導き、三心は、これは座っている色身である事を知り、如理作意は、導きの役目を果たす。

如理作意は、聞慧より来るが、最初に、座っている姿というのは、座っている色身である事を知るのもまた、如理作意であり、その後に、三心が、座っている姿は、座っている色身である事を知るのである。

我々は、朝に何事かをし始めてから、夜眠るまで、常に、如理作意を用いなければならない。

そうでなければ、正念正知は、正しく運用できないであろう。

最初、あなたは、聞慧によって、座っているは、座っている色身である事を知るが、この時の聞慧は、すなわち、如理作意である。

如理作意は、正念正知が正しく運用されるよう、支援することが出来る。

e)察知力は、我々をして、正念が強すぎて、正知が足りていない状態ではないかどうかに気づかせてくれるが、正念正知は、バランスが取れていなくては、<今・ここ>は、保持できないのである。

(1-62につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>