Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

「身念処」1-64

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

三番目――潜在的な煩悩(漏):

これは微細な煩悩で、例えば痴(邪見)のようなもの。

唯一、実相般若のみが、この種の潜在的な煩悩を断じ除く事ができる。

もし、三番目の煩悩を、断じ除く事ができるならば、第一、第二の煩悩もたま断じ除かれる。

煩悩の生起する所において、煩悩を、断じ除かねばならない。

例えば、我々が、痛みを(+痛いと)妄執する時、「私は痛いのだ」と妄執するーーしかし、痛いのは色身なのである。

故に、我々は色身の苦を観照するという方法でもって、色身において、邪見を断じ除くのである。

見る事、聞く事を、心の作用であると見做さなければならない。というのも、我々は非常に安易に「私が」見ている、「私が」聞いている、と妄執するからである。

このようであるから、我々は、我々の心の中で、この種の煩悩(邪見)を断じ除かねばならない。

「心が見ている」、「心が聞いている」は実相であるーー物事の本来の面目または自然な真実の状態として、それらーー実相ーーを見る事。

この種の修法において、修行者の任務とは、執着と嫌悪(貪と瞋)を断じ除く事である。

ある種の修法に、「座りつつ」、(+座る事によって生じた)痛みが無くなるまで「(+痛みを)超越せよ」というのがある;

この種の修法は執着を生み、また、我々に「我有り」という妄執、または(+痛み・現象を)主宰できるという誤った観念を齎す。

というのも、我々は座りながら、痛みを超越する事ができるし、また痛みを消す事もできるが故に。

(1-65につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>