Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

「身念処」1‐65

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

妄想心も同様であって、もし、修行者が妄想心をコントロールしたいと思い、専注や(+心が長く)平静で(+あり続けたいと強く望むならば)これも貪になる。(+この時)もし、修行者が妄想をコントロールできないのであれば、(+修行者に)怒りの心が起こる。

妄想は、我々に対して、心はコントロールできないものーー無我であると、啓示してくれる。

妄想するのは心であり、すなわちそれは、「私」が妄想しているのではなくて、心(心王)が妄想しているのである。

観禅(=vipassana)の時に出現する幻像とか符号、諸々の閃光、幻覚なども、一種の煩悩であり、それらはあなたを<今・ここ>から乖離させる事がある。

それらは、vipassana の所縁ではなく、また、それはすでにあなたが定から離れている事を、暗示しているのである。

同様に、軽安と快適な感覚もまた、定から離れいている現象である。

歩くか、又は運動するのは、定からの乖離する現象を減らすよい方法である。

もし、修行者が、サマタを修行するならば、煩悩の特徴を見る事はできない。というのも、サマタは、ただ貪と瞋だけを、降伏することができるが故に。

修行(+の方法)を間違う、その動機は、一種の煩悩である可能性がある。もし、一人の修行者が、苦を滅し、生死を了したい(=生死輪廻を終わりにしたい)のであれば、この種の動機は正しいものである。

しかし、もし、一人の修行者が、その他の理由、例えば、何かに成功したい、成就したいと思うのであれば、それは煩悩である。

もし、一人の人間が、忍耐強く禅定ーーこれは一種の善法ではあるがーーを修習したとしても、苦を滅することは、できないのである。

(1-66につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>