Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~ vipassanā とは何か?

緬甸(ミャンマー)のパオ僧院の長パオ・セヤドーが教える、いわゆるパオ・メソッド(ご本人はこう言われるのを嫌っています)が、瞑想好きの人々に人気があるのは、

似相(nimittaの光)が見えるようになると vipassanā という名の、観照の修行ができるようになるからです。

しかし、vipassanā は、定義がはっきりしていなくて(パオ・メソッドに基づけば、定義ははっきりしているのですが、日本ではこれまで、色々な形で vipassanā が説明されてきているので)修行者の間でも、混乱があるように見受けられます。

私が現時点で考えている vipassanā は、二種類あります(パオ・サヤドーの考えではなく、私個人の説明の仕方、一種の方便です)。

一番目は、レベルの低い vipassanā ですが、レベルが低くても、無常・苦・無我が多少は分かる、そういう vipassanā です。

私たちは、素の意識の時、あれが食べたい、あの人が憎いと、マクロ的な五蘊の意識に振り回されています。

少し瞑想して心が落ち着くと、己の思いや考えは、実はコロコロと変わっていて、どれが本当の自分の考えなのか分からなくなる、という体験をする事があるでしょう(この瞑想のレベルは、遍作定くらいでしょうか。遍作定は、安般念でも入れますし、身念処でも入れます。)

その時に、己の心の変化、または身体の痛い痒いの変化をみて、「あ、これ無常・苦・無我だ」と察知・省察する事ができれば、この人は、<低いレベルのvipassanā>をやっていると考えられます。

高度な vipassanā とは、どんなものでしょうか?

一度禅定に入り(その後に禅定から出て)、禅定で得た似相の光を借りて観照するのですから、無常・苦・無我は映画を見ているように、<見る><観る>ことができます(中国語の<見jian=見る>は<受け身的にただ見ている>という意味も含むので、中国語で vipassanā を表すとき、<観guan=積極的に見る、観ずる>という文字を使います)

映画を見る様に、無常・苦・無我を観ずる、そのような高度な vipassanā をするには、一度禅定に入って、その後に禅定から出て、身・心の観察をしなければなりません。

それはなぜかと言うと、禅定に入っている時は、心が一境に固まっている為、刹那に生・滅する身・心の法(実相)を観察する事ができないのです。

故に、禅定から出て、似相が光っている内に、刹那定の意識状態を保ちながら、ミクロ的に身・心の無常・苦・無我を観察をするのですが、それを私は、<高度のvipassanā> と呼びたいと思います(ここで刹那定を必要とするのは、観察、観照の目標が、刹那に生・滅している為です)。

日本では、vipassanā の定義が混乱しているので、現時点では、このように解釈すればよいかもと、交通整理をしてみました。

一時の便利の為で、上記は決定打でもありませんし、ましてや定説でもありません。私のでっち上げ・・・抛瓦引玉です。もっと素晴らしい、万人の納得する説明をして頂ける法師の方の出現を、お待ちしています。

追補:パオでは、私が勝手に造語した所の<低いレベルのvipassanā> は vipassanāとよばず、<サマタの気づき>と言うようです。

また、パオでは、禅定の定力で身体内部を観察する32身分も、vipassanā ではなくて、サマタ瞑想に属するとしています。

これまで日本で言われてきた vipassanā、すなわち、ここで私が勝手に造語した所の<低いレベルの vipassanā>は、パオでは、<サマタの気づき>という事になります。

以下に整理しますと:

★日本でこれまで言われてきた vipassanā 

一度も禅定に入らないまま、遍作定で無常・苦・無我を察知・省察する(実相としての刹那生・滅を観じていない為、観念の域を出ていない。)

今回、私が勝手に<低いレベルのvipassanā>と表現。

=パオで言う所の<サマタレベルの気づき>。

 

★パオの vipassanā =色法と名法の、無常・苦・無我、縁起を、禅定から出て(禅定には、必ず一度は入る)、似相(nimitta)の光の下、映画を見るように<観ずる>事。

ご参考まで。