Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

是誰庵のひとやすみ~印可・印証は必要か?

我々仏道の修行をする者の内に、自分の指導者から「よし、それでこそ私の弟子だ」「私が印可・印証しよう」と言われるのを喜ぶ人が、一部において存在するようだ

(中国禅宗慧能禅師の衣鉢伝承物語の影響か?)。

通常、禅の指導者は印可・印証はしない。

パオ・セヤドーもしないし(「<菩提樹文庫>収録「パオ・セヤドー問答集」参照の事)、孫倫(sunlun)セヤドーも、しない。

孫倫セヤドーは著書の中で、こう言っている。

「ある種の禅の修行者は、一つか二つの証悟の段階を登った旨を、自認する事をことさら好む。

心にそのような考えが浮かぶと、己の考えが正しいことを証明してもらおうと、考え始める。

彼の指導者である所の禅師が、間接的に忍耐強く、彼の間違いを指摘するというその事自体が、すでに、一種取り返しのつかない事態ではある。

私、孫倫セヤドーは、これまで一度も他人の為に、印可・印証した事はない。

もし修行者が、己がすでに、これこれの段階まで修行が進んだ、と言うのならば、私はただ一言『あなたがそう言うのであれば、そうなのでしょう』と言うのみである。

どのような状況であっても真正の証悟は、誰かに印可・印証してもらう必要は無い。

修行者は己自身で分かるからである。

同様に、証悟したという錯覚に関しても、ことさら他人に知らせる必要は無い。禅者は己自身でこれ(=錯覚)を発見する事ができる。」

      (「正念与洞察智慧的培育」ー孫倫禅師著ーp131より抜粋・翻訳)

世の中には、己一人で学び、己一人で悟る人はいる。そういう人は法脈など誇らない。法脈がどうの、衣鉢がどうのと言う修行者は、まだまだ修行が足りないようだ(笑)

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>