私は男女平等主義者で、男性を差別する気はないのですが・・・仏教が好きな男性の中で、理論が非常に好きな方がいらっしゃいますよね。
パオ・セヤドーの理論書をせっせと翻訳している身で、こんな事は言いにくいのですが・・・理論で悟る事はできません。
理論を頭いっぱい詰め込んで、他人と論争している人は、悟れません。
理論は、山を登る時の方位計みたいなもので、自分が間違った方向へ進んでいないか、時々確認する為に使います。方向が定まったら、ひとまず、ポケットに仕舞うものです。
じっと方位計を睨み付けて、方位計の大きい、小さいを競っても、意味がありません。
悟りとは、あなたが、自分の足で山を登る、または山を下る、事です。
これまで掴んで離さなかったあなたの常識や、武装手段としての仏法書を手放した先に、あなたの悟りはあります。
山を登るのは、<悟りを得たい>と言う決意。
山を下りるというのは、ため込んだ<我執を手放す>事です。
悟りとは、登りながら下る事。
方位計は、ポケットに。
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>