Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~中道と中庸

先日、仏教思想を下敷きに小説を書かれる事で有名な作家の本を読んでいましたら、「中道」という言葉と、その解説に出会いました。

彼はゴータマ仏陀の「中道」を、ほぼ「中庸」と同じ意味合いで使っています。

私は「ああ、またか」と思いました。

日本では、大乗仏教が主流なせいか、ゴータマ仏陀の無常・苦・無我説が余り浸透していないように見受けられます(後、日本では、僧侶を含め、多くの人が輪廻を否定している事も、無常・苦・無我説が浸透しない原因の一つだと思われます)。

その為、ゴータマ仏陀の思想の、最も要となる「中道」を説明するのに、四聖諦や八聖道は出てこないで、孔子が主張した所の「中庸」に行ってしまう。

「中道」は決して、ちょうどよい位置取り、方法という意味ではありません。

ゴータマ仏陀ご在世の頃、定楽と苦行が盛んでありました。

定楽というのは、有情が輪廻するのは怒りが原因だ、という所までは分かっていた人々が、定/禅定(サマーディ/ジャーナ)に入って、怒りから遠のく心を保持しようとした修行方法(若きシッダッタが師事した、二人の仙人が教えた方法)。

苦行は同じく、輪廻するのは、貪欲によって肉体が穢れているからだという思想を持った人々が、肉体を苛め抜いた先に輪廻からの解脱があると考えて、一日中手を上げているとか、釘の上に横たわるとかの、極端な苦行に走ったもの(シッダッタも、断息法とか断食とか、色々挑戦しました)。

ゴータマ仏陀はその二つの方法とも、輪廻を解脱する事ができない、と見抜きました。

そして、彼は定楽にも逃げ込まず、苦行にも沈潜しない方法として、<智慧による解脱>を掲げたのでした。

定楽と苦行という、両極端に逃げ込まない、という意味において仏陀の修法は「中道」であり、<智慧による解脱>を目指すという正しさにおいて「中道」なのです。

人に実相般若、すなわち vipassanaによる智慧が生まれるためには、戒・定・慧の三学(=八聖道)を実践しなければなりません。定は、八定、特に四禅を意味し、智慧とは、刹那定において実践する vipassanaによって得る所の、無常・苦・無我の実相に関する、如実なる知見の事を言います。

「中道」は決して「中庸」ではありません。

「中道」とは、四聖諦を知り、道諦(=三学/八聖道)を実践する事を意味します。

<右と左を足して二で割る人生>では、悟る事はできません。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>