<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
2-1-3 中道
中道は、好き、嫌い、執着または嫌悪(+の感情を)取り除くか、または止息したものである。
中道は、この修法にとっては、非常に重要である。
もし、あなたが正念正知を具足して、<今・ここ>において生きる事ができるならば、好き、嫌いという(+感情)は、生起する事ができなくなる。
これは、また、我々がなぜ以下の様であらねばならないか、という理由でもある。
1)毎回、苦が生じる時、姿勢を変えて苦を治そうとするが、それは苦が、色身に姿勢を変える様迫るからである。
あなたは、「如理作意」を保持して、煩悩が介入するのを防がなければならない。そのような事から、姿勢を転換する時、良好な如理作意と省察力を保持する必要があり、そうであって初めて、あなたは、あなたの修行が、煩悩と相応していなかどうかに、注意を払う事ができる。
例えば、座っている時、我々は少し(+身体が)痛いと感じる事があり、(+その時)我々は、この姿勢を好まない(嫌悪の心を起す)で、貪欲な心を起して、もう一つの、新しい姿勢に転換しようとする。
(+この修法においては)ただ苦が我々に迫った時にのみ、我々は姿勢を変更する事ができる(=姿勢を変更してもよい)。
我々は、痛みがなくなるまで、座り続けてはならない。
というのも、このようにすれば、煩悩が生じるが故にーーそうする事によって、私(+自身)が、痛みをコントロールできるかのような錯覚・邪見を(+生じせしめるのである)(実際、身・心はどれも、コントロールできないものであって、それらは無我なのである。)
しかしながら、ある種の修行者は、苦を見る為に、長く座ったり、または痛みが消えるまで座り続ける事があるが、しかし、この種の苦は真実ではないのである。というのも、この種の苦は人為的な要素によって、意識的に造りだされたものであるが故に。
ある種の修行者は、更に長く座っていようとするのは、深い禅定に入るためである。というのも、彼らは、このようにすれば、智慧を引発することができると考えているからである(訳者注1)。
しかし、このようにする事は、煩悩を増やすだけである。覚えておいて欲しいのは、四念処は修心であって、修身ではない事である:もし、心が間違えたならば、身体もまた間違うのである。
例えば、心の内に、結跏趺坐が、比較的に容易に実相が見えるという考えがある時、心は身体をして、結跏趺坐をさせるのである。
2)どのような姿勢においても、それから快適さ、または快楽を得ようとしてはならない。また、この種の姿勢はあの種の姿勢より良いとか、悪いとか、考えてはならない。
というのも、どの種の姿勢も、不確実:無常・苦・無我なのであるから。
3)修行において、定を得ようとしてはならない(訳者注2)。
禅定は、我々をして、コントロールできる自我があると思わさせられるし、また、我々に静かで楽しいという感覚を齎す。しかし、実際には、楽しいというのはなく、暫定的に苦から離れた(+と言う状況が)あるだけなのである。
もし、苦がないならば、我々は苦を体験・体得することができない。苦諦は、仏の教えた真理であり、しかし「楽諦」ーー楽しさの聖諦ーーはないのである。というのも、楽は無常・であり、苦に変化するものであるが故に。
4)修行には、成就したいとか、開悟したいとか、看破したいとかの心理(+的要求)はないようにする(+のが望ましい)。
涅槃を証したいとか、阿羅漢果を得たいとかも、思う必要は無い。
修行者は、これらの貪念を滅し除くべきであって、そうでないならば、涅槃には到達できないのある(訳者注3)。
5)修行においては、あなたは教師になりたい等いう考えを持ってはならない。この思いは、貪欲を齎し、慧の発生の障礙になる。修行の唯一の目標は苦の滅にあるのである。(訳者注3)
(訳者1)禅定を重視するパオ・セヤドーの修法を学んでいる訳者としては、この考えにもろ手で賛成する事はできないが、近行定や安止定のレベルにおいても、<苦諦>への、多くの気づきが齎されるのも真実である。私自身は現時点では、禅定で悟る方法と、軽い定(サマーディ)で苦を悟る方法の、両方を併用してもよいのではないか、という考えを持っている。
(訳者2)注1で書いた様に、パオ・セヤドーの法門に属する者としては、深い禅定は必要だと考えている(ただし、パオ・メソッドでは、禅定から出て後、刹那定を保ちつつ vipassanaを実践し、vipassana によって無常・苦・無我を悟るのであって、禅定自体を最終目標においている訳ではない)。
(訳者3)修行において「成功して、人を教えるようになりたい」とか「名声が欲しい」となると、邪道になり、指導者にありながら、問題を起すことは、近日にも生じることである。修行における成果主義は、百害あって一利なしである。
(2-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>