Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

是誰庵のひとやすみ~在家の修行と出家の修行

今回、私のブログで「マハーシ瞑想」について述べましたので、その続きとして、一言。

30年ほど前でしょうか?

日本でマハーシ瞑想が流行りました。

坐禅しながら、己の腹の起伏を見て(=気づいて、以下同様)、または歩きながら足の上げ下ろしを見て、気づいた事柄に対してラべリングして、集中力を養う、という修法です。

ラべリングをすると、己の気づきの力が高まったような気がするし、それが仏陀の開発された修法  vipassana であると言われて、大いに盛り上がったものです。

その時、声高に言われた事は、止・観(サマタ・vipassana)瞑想の内、止を完成するには非常に長い年月がかかるので、在家はそんな悠長な事をやっていられない。

ラべリングしながら、即、観(vipassana)をやればよい、というものでした。

しかし、ラべリングしながらの瞑想は、概念でもって概念を観察する以上の観察はできないのです。

これを<覚知の瞑想>と言います。

観(vipassana)は、色聚の究極法、名法の究極法を、心眼で<観照>する事を意味します。

<覚知>と<観照>の、天と地ほどの違いを曖昧にしたまま、「いつ成就するか分からない止(サマタ)の修行は出家に任せて、在家ならラべリングで、今すぐ vipassana しよう」というのは、在家への「ここちよいニンジン」「見果てぬ夢」ではないでしょうか?

在家でも出家でも、究極名・色を<観照>しなければ、無常・苦・無我の極点を悟る事は不可能です。

在家であっても、いつかは色聚の無常・苦・無我、名法の無常・苦・無我を<観照>してやろうという気概を持って、修行して頂きたいと思います。

修行に、在家か出家かの別は、ありません。

誰であっても、道が正しければいつかは、終着点に到着するのですから、出家はもちろんの事、在家の方々も、是非とも、八聖道を歩んで下さい。

(正定に入らないで行う刹那定瞑想への批判は、拙訳『智慧の光』(パオ・セヤドー著)<第一章>参照の事。)

追補:私は<ゴエンカ式vipassana>にも取り組んだ事があります。ただし、短期の<10日間宿泊瞑想>に何回か参加した、ものです。

この10日間の瞑想は、内容としては<覚知瞑想>であって、<vipassana>ではありません。一か月または三か月のの長期の宿泊瞑想会に参加した事がありませんので、その場合の修法は存じ上げておりませんが・・・。

尚、上記<10日間宿泊瞑想会>に参加された方で「私は四界分別観をやった」と言う方いますが、10日間タイプの、4日目以降において実践されているのは、身念処または受念処であって、四界分別観ではありません。

四界分別観は、全身に分布する四界の12の特徴を、頭部から足先まで、順を追って認知、覚知するものですが、10日間宿泊瞑想会で、12の特徴が修法として語られた事は、寡聞にして一度もありません(四界分別観の修法については『智慧の光』参照の事。四界分別観は、一人で自己流に取り組むと大変に危険です。必ず指導者について下さい。)

ゴエンカ式に取り組む方も、今、自分は覚知のレベルの瞑想をしている・・・今、自分は vipassanaしていると、明確に区分し、自覚されることをお勧めします。

Vipassanaを、修行が進んでいる感じがする、自他を騙す魔法の言葉のように使うのは、そろそろ止めにしませんか。

      <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>