Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。

是誰庵のひとやすみ~『智慧の光』の読み方

私は1998年に、台湾でパオ・セヤドー著『智慧之光』(中国語版)を手に入れて後、当該書籍の日本語訳に取り組み、その後20年来、『菩提資糧』など、パオ・セヤドーの他の著作、テラワーダ系の、私が良い思った比丘尊者、メーチ(尼僧)の方々の著作も、何点か翻訳して参りました(現在進行形で、Web上に、公開して、載せてあります)。

故に、私の立ち位置は、翻訳僧兼修行僧といった所で、仏典を研究する学僧ではありません。

ですから、仏教学会に所属する学僧程には、ダンマに関して、緻密な考察はできておりませんが、パオ・セヤドーの著書『智慧之光』の翻訳を通して、2つばかり、注意しておく事柄があると思いましたので、ここに記させて頂きます。

一つ目は、私のブログで言及致しましたように、マハーシ瞑想における刹那定の問題です。一度も禅定に入らないまま実践する刹那定は、正定ではない、というのがパオ・セヤドーのご意見です(この件は既出ですので、これ以上、ここでは述べません)

次に、有分(心)の件です。

マハーシ瞑想では、相当の深さで定に入った時、涅槃体験をする事ができる、と言います(ラべリングしながら深い定に入れるのかどうか、涅槃体験の為の、別の修法があるのかどうかは、筆者には不明)。

その涅槃体験においては、意識はまったくの暗闇にいる様で、何も見えない、何も知られない。

定から出てきて初めて「ああ、私は涅槃体験をしていたのだ」と知ることができる、と言うのです。

パオ・セヤドーは、涅槃体験をしている最中「『私は今、涅槃体験をしている』と、明確に意識している」と、言います。

「涅槃体験とは、心が、心の所縁として、<涅槃(空)>を対象にとったもの」と定義できますが、その時、心は、己が涅槃体験をしている事は明確に知っている、というのがパオ・セヤドーのご意見です。

これを第四禅に当てはめると、

「第四禅に入ると、何も分からなくなる」

と主張する人がいますが、それは第四禅の定義<一境性の保持>とは状況が異なる、と考えられます。

<第四禅に入ったら、心は、何も分からない>

<心が涅槃体験している最中、心は何も分からない>

という主張に対して、パオ・セヤドーは「それは心が有分(心)に落ちたからだ」と『智慧の光』の中で述べています。

心が定に入りながら、所縁を見失って(正確には見失ったのではなくて、心が有分に落ちて、結生識の業のイメージを対象に取っている)、何も分からなくなった後、定から出てきて、素の意識で「これは第四禅だ」「これは涅槃だ」と断定する・・・

この種の誤解は、修行者の内に多々あるようで、パオ・セヤドーが著書の中で、批判し、注意を促しています。

パオ・セヤドーは『智慧の光』等の自著と《清浄道論》をしっかり読めば、自分一人で修行しても、涅槃を悟れると励ましてくれています。

悟るための法門は色々あって、パオ・メソッドもその内の一つでありますが、「第四禅とは何か?」「涅槃とは何か?」の定義が、宗派宗門ごとに、バラバラであっていいはずがありません。

パオ僧院に行かれる方も、ご自分で修行される方も、もう一度、『智慧の光』で確認されるようお願い致します。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>