<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
慙・愧がない、破戒をする真正の出家者が、熱い鉄の玉を飲まされたとしても、(+偽比丘が)人々の供養する食物を食べるよりは、まだましである、と(+仏陀は)言う。
我々は、一人の、袈裟を借用して、一滴の慙・愧の心なく、善信徒たちが供養した金品をだまし取る偽比丘は、一体将来において、どのような悲惨、悲痛な果報が待っているのか、想像がつかないくらいである。
彼らが、己の行いにあるべき尊厳を無視・軽視する事に対して、我々は遺憾と憐憫を感じるが、またそれ以外に、仏弟子を自認する我々は、大衆に向かって、出家者の真・贋を判別する為の情報を広報し、彼らが二度と、仏門を利用して悪事をなす事ができないようにするべきだ、と考える。
一人の出家者が、常に、真に、両袖清風(=清廉潔白)であり、社会の民衆が、出家者の戒律と托鉢の真実の意義を知ったならば、ある者が偽比丘になったとしても、それは、何等の利益のない ”あきない” になるに違いないし、そうであれば、人は嘘までついて、錬財などするであろうか?
こういう状況であれば、心が不良である人が、食を得る為に、仏門に混じり入りたいと思うだろうか?
出家者に金銭を布施したがる人々は、以下のように考えるかも知れない:
相手が真正でも偽者でも、一粒の善心でもって金銭を布施するならば、なんの問題もないだろう。
しかし、このようにすれば、無形の内に、不法の輩が地獄へ行く悪業を支援している事になり、相手を堕落させているのであり、同時に(+このような無明の行為は)、仏陀によって、衆生が苦から離れ、楽を得られるようにと教えられた正法の、没落・衰退する趨勢が加速される事に繋がるのである。
(3-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「偽比丘の見分け方」中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>