預流果である聖者が一たび、(+正念でもって)己自身の心の状態に気が付くようになった時、もはや、嘘をついたり、詐欺をするなどという事がない。
彼は非常に誠実になり、(+あらゆる事柄を)静かに観察する事ができる。
彼はいまだ、色々な物事を渇望する・・・というのも、預流果は、すべての欲望と貪欲を、断じ除いた訳ではないが故に。
しかしながら、預流果にいまだ、貪欲があったとしても、破戒するほど、それが強度になる事はない。
預流果は、何かを得んが為に、殺生をしたり、偸盗をしたり、嘘をついたり、邪淫をしたりする事はないし、酒や薬に酔う事もない。
預流果には、これらの事(+破戒)を為そうとする欲望は、もはやない。
この時、預流果は、己を無理やり抑制している訳でもなく、ただ、静かな心で「そんな事はしたくない」と思っているだけである。
この時の、預流果の自制心は非常に自然な状態にあり、故に、容易に自制をなし、もがく事も、抗う事もなく、何等の努力も必要としない。
(Sayādaw u Jotika 著
A Map of the Journey より抜粋・翻訳)