<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
これまで修行した事のない人には、妄想しやすい、という問題がある。そして彼らは、修行が進むと、彼らの中に、妄想したくない、という思いが生まれるーーこれは中道ではない。
初心者は、定を維持するのが大変に難しい事に気が付くが、一度に何日も、一人でいる事にも耐えられない。
彼らに貪愛が訪れると、不安になり、平静を渇望し、楽しさを追求したり、楽しい事柄を見たり聞いたりしたいと思うようになる。
6)座る姿勢が、痛みを生じせしめた時、座る色身の痛みを認識するーー痛いのは「あなた」ではない。
「座っている色身」は<今・ここ>であり、「座っている色身ーー苦」もまた<今・ここ>であり、修行者は、<今・ここ>の「座っている色身ーー苦」という、この所縁を「心が痛みを知っている」に変更してはならない(痛覚は心(+によるの)であり、これを「苦受」という)。
我々は、ただ単純に、色身の苦を治するだけであり、心を仲間に引き込んでは、ならない。
7)修行者は、身・心への覚照力を維持しつづけなければならない。
しかし、注意力を色身のある一つの部分に、集中させてはならない;
また、苦の生起を期待してもならない。
このようにすれば、あなたは<今・ここ>から離れてしまう;
また、苦が非常に強くなって、身体を麻痺させるほどまで、じっとしていては、いけない。
苦諦とは、非常に重大な痛みに対応するのではなくて、一回ごとに生起する苦ーー大きい時もあり、小さい時もあるーーをしっかりと見極める事であり、このようにすれば、修行者は、苦に関する真理を、体験することができる。
(2-13につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>