Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」2-14

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

8)もちろん、我々は、座っている色身など等を、「見た」という事はある。しかし、実際には目を使ってみているのではなく、または各種の異なる姿勢を注視している訳ではなく、身体への覚照は、心ーー正念正知ーーすなわち、智慧によっているのである。

修行する時、目を開けていた方がいいか、瞑っていた方がいいか、または半眼がいいかは、個人の習慣によって決めてよい。ある種の人々は、目を開けるのが好きで、ある種の人々は、目を閉じるのが好きで、ある種人々は、半眼で目に柔らかい光が入って来るのを好む。

9)修行における所縁は、己自身の色身であり、他人の色身ではない。他人の色身は関係がない。ただし、他人の身体が、己の視野の中に入ってきた時、それを色法と見做さなければならないし、また「心が見ている」事を、知っていなければならない。

10)戒

a)修行者は、必要な時だけ話をする。例えば日用品を必要と(+してそれを請求)する時などなど。

修行者は、ただ指導者とだけ法を話し合う事ができる。

この修法は、八聖道の戒・定・慧であり、戒は清浄でなければならない。この場合、なるべく沈黙を保つ事を意味する。もし、戒が不清浄である時、定を得ることはできない。定がないなら、智慧が誘発される事はない。

b)すべての戒は、八聖道に基づく(1-4-7節参照)。修行者は特に、命を害する事がないように注意する事。昆虫などの微細な生命にも、注意を払う事。

この種の課題は、瞑想センターの職員、担当者も、知っていなければならない。

(2-15につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>