Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。

「身念処」2-24

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

2-3-3 課題

1)「我」ありと思う煩悩の汚染は、どこから侵入するのか?

それは心(受)から侵入する。

心の感覚、たとえば、「私」が座っているという感じ、己が座っているという感覚(+があるが故に)。

この修法は、座っているのは、色身である事を体験・証悟するものである。

精進、正念、正知の心でもって、座る色身(それは私ではない)を、観照しなければならない。

2)座っている色身を知るのは誰か?

三心(精進ー正念ー正知)が、座っている色身を知る(私が知るのではない)。

3)四種類の姿勢を覚照する目的は何か?

a)各種の姿勢を覚照し、かつ各種の色身(は私ではないという事)を認識する事によって、「私」が立っている、「私」が座っているなどという邪見を断じ除く事ができるーーこの事を通して、無我を証悟する(+ことができる。)

b)座る色身が、痛みを感じる時、我々は苦を発見する事ができる。苦は、色身をして、姿勢を変更せざるを無いほどに(+我々を)逼迫させる時、(+我々は)これは無常であると、認識する(ことができる。)

無常とはすなわち、我々をして、長時間、同じ姿勢を保てない事を、言う。

もし我々が、(+我々自身は)座る色身(+に過ぎない事)を、「無我」として理解するならば、その他の二種類の特徴、苦と無常もまた、自然と理解する事が出来る(思慧で理解する)。

4)なぜ我々は、古い姿勢から新しい姿勢に転換する時に、不断に、痛みへの観照が、必要であるのか?

(たとえば、座る色身から、立つ色身に変るなど)

座る色身が痛い時、修行者は、座る色身の苦に気が付くことができる。

修行者が、立つ姿勢の色身に変わる時、(+その時々の)痛みを不断に観照する事によって、新しい姿勢もまた、苦を治する為に過ぎないという事を理解する。

この種の理解は、心と煩悩が相応するのを防ぐことができる:

すなわち、古い姿勢を嫌がって、新しい姿勢を好む(という煩悩)。

というのも、我々は、古い姿勢または新しい姿勢の中に、元より「私」というものが存在しない事、(+そこにあるのは)ただ、座る色身、立つ色身に過ぎない事が分かれば、煩悩を防止することができるからである。

修行者は、このような如理作意を用いて(+対象を)観照すれば、どの姿勢(立つ、歩くなどなど)においても、楽しい事などない事が、知れる。

こうした事から、不断に絶え間なく、如理作意によて姿勢の転換を観照する事を通して、真理を体験することができる:

すなわち、四種類の姿勢の中に苦諦が隠蔽されている事を。

5)なぜ、我々は、「座る色身」「立つ色身」などなどの名相(=言い方)をするのか?

一つひとつの姿勢の色身は、それぞれ異なるからである。

同じ姿勢の色身もまた(+微細には)異なっている。座っている姿勢は、一つの色身で、立つ姿勢もまた別の色身である事などなど。

ましてや、座っている色身を知っている心と、立っている色身を知っている心もまた、異なっているのである。

このことは、身・心は、一刹那毎に、不断に生・滅しており、二つと同じ身・心などあり得ない事を示している。

この種の知見は、修行者にとって、身・心を「我有り」として執着するのを、看破する事が出来るし、また、自我(+あり)という邪見を断じ除いてもくれる(1-11節「堅固」参照の事)。

(2-25につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>