<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
2、因縁智を掌握する
修行者は、第一階智を体験・証悟した時、もし、彼が更に続けて<今・ここ>において、身・心を観照するならば、彼は多くの種類の色身と、多くの種類の心がある事を体験・体得する。また、観照する時、両者を混同する事がなくなる。
たとえば、前に座っている色身が痛い時、彼は痛みに注意を向けるが、彼はただ座る色身が痛いのだという事をのみ知り、この苦が、心受であると体験・体得する事はない。
今、彼は座る色身が痛い事と、心受が色身の痛みを知っている事、を体得した。
故に、この智において、彼は身・心の両者ともに、因・縁によって生起し、かつ身・心は、お互いに、因となり縁となっている事を、体得する。
というのも、心が作用する為には、意根、その他の諸根(器官)と所縁が必要であり、それらがあって初めて、作用を起す事ができるからである。
反対に、色身もまた、心に依って初めて、動作する事ができるーー歩く、移動など等。
修行者は、<今・ここ>において、身・心は、皆、因・縁によって生じ、またお互いに因となり縁となっている事を体験・証悟した為、彼は身・心は、最高神または超越的な力によって創られた(邪見)のではない、という事をはっきりと理解する。
現在の身・心は、実際は、過去の無明、愛、取と業によって生じており、身・心は、食べ物に依存して生を維持する。
修行者は智慧でもって、この種の因と縁の関係性は、過去もそうであり、現在もそうであり、未来もまたそうである事を体験・体得する。
彼はこの生(世)は、これより生まれ(因と縁によって生まれ)た事を体験・証悟した為、過去においても、このようにして生まれ、未来においても、このように生まれる事に確信を持ち、疑うことがない。
七清浄の内で、この智(第二智階)を度疑清浄という。この智以後、修行者は自在を得る。
というのも、彼は死後、必ず善趣に往生する事が確信されるからである。
この智を証悟した人を「小須陀洹果(チューラ・ソータパナ)」と呼ぶ。
(3-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>