Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。

「身念処」3-4

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

3、遍知智

一つ前の階智では、修行者は、ただ心身の因(生起)をのみ、体験・証悟しただけで、まだ、身・心の滅ーー身体が迅速に、不断に生・滅するーを見ていない為、生・滅の現象を見ても、修行者の智慧は、いまだ非常に弱い。

もし、修行者が、継続して、<今・ここ>において、身・心を観照するならば、彼は非常に早く、生・滅する身・心を見ることができるであろう。

しかし、この時、相続の切れ目を見るには、智慧が不足している。

たとえば、座る姿勢から立つ姿勢に変わる時、修行者は、滅し去った古い姿勢(座る姿)を見ることができる。

しかし、座って<今・ここ>を観照する時、智慧がいまだ十分に強くない為、生・滅する身・心を見ることができない。しかし、彼は、身・心の三法印を理解することはできる。

そして、この段階は、いまだ<今・ここ>とは言えない。

真正な<今・ここ>は、第四階智によって、ようやく現前する。

《清浄道論》は、この智を「審察遍知(=省察遍知)」と呼んでいる。

七清浄の中で、この智は「道非道智見清浄」と呼ばれ、この智は、修行者をば、真実の道ーーすなわち、次の階智へと、導くことができる。

4、生滅随観智

この智は、身・心の生滅と、相続の感覚(身・心は相続しているという錯覚に対する妄執)を体験・体得するものである。

今、修行者は、実際には、身・心は生滅しているという、分離的現象を見る事になるーー(慧の修習の下の)<今・ここ>において。

この段階の智階において、修行者は身・心が同時に生・滅しているのを見ることができる。

実際は、仏陀によると、心の生・滅は、身体の生・滅より17倍速いーーただ、修行者は、これほど速い速度(の身・心の生と滅)を見ることができないが、しかし、彼は、両者(身・心)が同時に生・滅するのを、見ることができる。

この智においては、はっきりと、身・心の三法印を見る事ができるし、また三法印は心の中に潜伏する煩悩、すなわち、愛、我(「私がいる」という錯覚)、見(邪見)と顛倒妄想を取り除くことができる。

この智は、修行者に対して、修行が正しく行われているかどうか、教えてくれる。

もし、修行が正しければ、涅槃へと導かれる。

正しい修法によって生起した智見とは、観智(第四から第12階智まで)を言うのであり、もし、修行が間違っている場合、観の染(=汚染)が生じるーー10種類の観の汚染があり、これを vipassana染と呼ぶ。(次の段において、vipassana染の紹介をする)。

もし、vipassana染が存在する時、修行者の清浄が不足している為、汚染(煩悩)を離れることができない事を表しているーーというのも、煩悩は深く(+心の内に)沈んでおり、智慧が微弱である為に、それを厭離する事が出来ないのである。

この種の汚染は、定に偏りがある為に、生じたものである。定に(+過分に)偏ると、修行者は観智から離れる事になり、異なる境地に執着するようになる。

これらの境地は、非常に容易に、修行者をして、涅槃(+に到達したのだと)誤解させる。

これらの境地には、光明、喜、捨など等が含まれる。

もし、修行者が以前に定の修行をした事があるならば、非常に定に偏り易い。

この時彼において、この種の定の境が再三再四現れるならば、vipassanaにとっては、非常に大きな障礙である事に気が付くであろう。

信が強すぎるか、または精進が勇猛すぎる場合もまた、障礙になる。

この10種類の汚染は非常に人を誘惑し、修行者がこの境地の中に執着するようにさせ、その上、迷妄として、それが涅槃であると誤認させる。

指導者が彼に、それは涅槃ではないと教えても、彼は決して受け入れない。

もし、修行者が、この汚染から離れないならば、彼は、更なる上位の階智に、昇る事は出来ない。

(3-5につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>