<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
11、行捨智
この智は、身・心(身・心の行)への冷淡さを誘発し、二度と再び、身・心に対する執着と貪恋を生じる事がないーー身・心は、長期に及んで、我々が「私」「私のもの」「私自身」として執着して来たモノである。
しかし、この種の冷淡さは、厭離の心理が含まれている。
この智は、一つ前の階智によって発展してきたもので、五蘊(行)の不堅実性をはっきりと、照見することができる;
非男、非女、非人間、非最高神など等ーーまた、生命は刻々消失していて、非常に早く死ぬかもしれないーーこの事から、身・心に関して、(+修行者は)楽趣を言う事ができなくなる。
智慧によって、身・心は空であり、非男、非女であると体験・体得した時、身・心に対して、興味を失う。
同様に、世界は空(カラッポ、実体が無い)であると感じる。
故に、捨心ーー身・心に対して愛憎のない念(+が生じるが)ーーしかし、これは厭離相応の捨である。
今、心は涅槃を証悟したいと思い、身・心の事はどうでもよくなり、三界の中に生まれたいとも、思わなくなる(三界は、第七階智の注を参照の事)。
この智は、世間の範囲内においての、最高の観智であり、この智は修行者の道心(道識)と果心(成果)を啓発することができ、かつ、修行者は、一人の聖者となる。
これは非常に鋭利な智慧であって、大部分の煩悩を断じ除くことができる。その為に、この智は、明確に三法印を見る事ができ、故に、涅槃を実証したい、という強烈な願いが生まれる。
第九階智(解脱の欲求)、第十階智(出口を探す)、第11階智(諸行の捨)は、皆、互いに相関し合っているーーしかし、第11階智の智慧が、他に比して、比較的強い。
三法印の、何か一つの相と相応する捨心は、皆、<解脱心>と呼ぶ事ができる。
もし、心が無常を観じて、涅槃解脱に向かうのであれば、これを<無相解脱門>と呼ぶ。
もし、心が苦を観じて、涅槃解脱へと向かうのであれば、これを<無願解脱門>と呼ぶ。
もし、心が無我を観じて、涅槃解脱へと向かうのであれば、これを<空解脱門>と呼ぶ。
(3-13につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>