<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
16、思惟反射智
この智においては、修行者は、前のレベルにおける幾つかの智の、体験・証悟した所の、己自身に関する五つの事柄について、思惟する;
1)道智(第14階智)(この道より来た)。
2)果智(第15階智)(かつて、このような功徳を得た)。
3)涅槃(この法を縁にして通達、到達、成功した)。
4)すでに断じられた煩悩(これらの煩悩はかつて捨断した)。
5)残りの煩悩(これらは、私の残りの煩悩である)。
この智の源は、果智(第15階智)であるが、また再び、世間のレベルに戻って来る。
というのも、我々は、世間心を回復させ、涅槃もまた心の所縁ではなくなるが故に。
この智を体験・証悟して、どれか、前三つの段階に到達した成就者(ソータパナ、サターガミ、アナーガミ)は、「有学の聖者」と呼ばれる。
ここにおける智(第16階智)においては、阿羅漢であれば、ただ前四項だけを思考するーーというのも、阿羅漢は既に煩悩がなく、故に、残余の煩悩に関する思考をしなくてもよいからである。
すべての、この智に到達した聖者が、皆、上述のすべての問題を思惟する訳ではない。
ある種の、根器が非常に鋭利な修行者は、ただ、前の三項を思惟するーーそして、煩悩を全く思惟しない(+ようになる。)
このレベルの智慧は、第14、第15階智とは異なるーーそれらは<今・ここ>において、涅槃を所
縁としている。
そして、この智に関しては、修行者はただ反応するだけであって、<今・ここ>にはいない。
一つ前の智は、たとえば、塩のようなもので、この智の場合は、ただ塩の味を思惟する、ようなものである。
故に、この智は、出世間心ではなく、世間心である。世間智ではあっても、七清浄においては、それを智見清浄と見做し、出世間智(第14、第15階智)をば、その下位においている。
これは、この智が、第14、第15階智を源としているからである。
注:
1)最初に成就した階位において、第13階智は種姓智と呼ばれるが、それは修行者が、凡夫から聖人の種姓に変化したからである;
しかし、その次に来る智の成就(サターガミ等)は、灌頂智と言う。
というのも、この修の状況の下では、成就者はすでに早くから聖者になっているからである。
しかし、一つひとつの道果を成就する刹那心は、みな同じである。
2)第一階智から、第12階智までは、皆世間に属する。
第13階智は、過度的なものである;すなわち、半分世間、半分出世間である。
第14、第15階智は真正な出世間で、第16階智は、また再び、世間に戻って来るものである。
3)以下のような、10種類の障礙を持つ人は、輪廻の中に束縛される:
それらは;
1、「私」という邪見。
2、仏陀の教法への懐疑。
3、儀式と典礼に執着する(戒禁取見)。
4、貪欲。
5、瞋恚と恨み。
6、色貪。
7、無色貪。
8、慢。
9、掉挙(=浮つき)
10、無明
a)入流者(ソータパナ):前三種類の束縛を断じ除いている。入流者とは、涅槃に至ることのできる流れに入っている事を言う。
彼は最も多くて7回、生死すれば、解脱することができる。
彼は悪道:地獄、畜生、餓鬼、修羅に再生する事がない事が、すでに決定されている。
b)一来者(サターガミ):第四、第五の束縛が弱くなっている。彼は欲界に一度だけ戻れば、生死を解脱することができる(欲界とは、人、天の事である。)
c)不還者(アナーガミ):第四、第五の束縛は、断じ除かれた。彼は二度と、欲界には再生しない。
d)円覚者(阿羅漢):最後の五つの束縛も断じ除かれた。彼は如何なる世界にも再生しない。
4)七清浄:
第一階智とは、七清浄の中の見清浄である。
第二階智は、七清浄の中の度疑清浄である。
第三、第四階智は、道非道智見清浄。
第四から第13階智までは、行道智見清浄。
第14から第16階智は、智見清浄である。
(4-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>