Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。

「身念処」3-17

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

16、思惟反射智

この智においては、修行者は、前のレベルにおける幾つかの智の、体験・証悟した所の、己自身に関する五つの事柄について、思惟する;

1)道智(第14階智)(この道より来た)。

2)果智(第15階智)(かつて、このような功徳を得た)。

3)涅槃(この法を縁にして通達、到達、成功した)。

4)すでに断じられた煩悩(これらの煩悩はかつて捨断した)。

5)残りの煩悩(これらは、私の残りの煩悩である)。

この智の源は、果智(第15階智)であるが、また再び、世間のレベルに戻って来る。

というのも、我々は、世間心を回復させ、涅槃もまた心の所縁ではなくなるが故に。

この智を体験・証悟して、どれか、前三つの段階に到達した成就者(ソータパナ、サターガミ、アナーガミ)は、「有学の聖者」と呼ばれる。

ここにおける智(第16階智)においては、阿羅漢であれば、ただ前四項だけを思考するーーというのも、阿羅漢は既に煩悩がなく、故に、残余の煩悩に関する思考をしなくてもよいからである。

すべての、この智に到達した聖者が、皆、上述のすべての問題を思惟する訳ではない。

ある種の、根器が非常に鋭利な修行者は、ただ、前の三項を思惟するーーそして、煩悩を全く思惟しない(+ようになる。)

このレベルの智慧は、第14、第15階智とは異なるーーそれらは<今・ここ>において、涅槃を所

縁としている。

そして、この智に関しては、修行者はただ反応するだけであって、<今・ここ>にはいない。

一つ前の智は、たとえば、塩のようなもので、この智の場合は、ただ塩の味を思惟する、ようなものである。

故に、この智は、出世間心ではなく、世間心である。世間智ではあっても、七清浄においては、それを智見清浄と見做し、出世間智(第14、第15階智)をば、その下位においている。

これは、この智が、第14、第15階智を源としているからである。

注:

1)最初に成就した階位において、第13階智は種姓智と呼ばれるが、それは修行者が、凡夫から聖人の種姓に変化したからである;

しかし、その次に来る智の成就(サターガミ等)は、灌頂智と言う。

というのも、この修の状況の下では、成就者はすでに早くから聖者になっているからである。

しかし、一つひとつの道果を成就する刹那心は、みな同じである。

2)第一階智から、第12階智までは、皆世間に属する。

第13階智は、過度的なものである;すなわち、半分世間、半分出世間である。

第14、第15階智は真正な出世間で、第16階智は、また再び、世間に戻って来るものである。

3)以下のような、10種類の障礙を持つ人は、輪廻の中に束縛される:

それらは;

1、「私」という邪見。

2、仏陀の教法への懐疑。

3、儀式と典礼に執着する(戒禁取見)。

4、貪欲。

5、瞋恚と恨み。

6、色貪。

7、無色貪。

8、慢。

9、掉挙(=浮つき)

10、無明

a)入流者(ソータパナ):前三種類の束縛を断じ除いている。入流者とは、涅槃に至ることのできる流れに入っている事を言う。

彼は最も多くて7回、生死すれば、解脱することができる。

彼は悪道:地獄、畜生、餓鬼、修羅に再生する事がない事が、すでに決定されている。

b)一来者(サターガミ):第四、第五の束縛が弱くなっている。彼は欲界に一度だけ戻れば、生死を解脱することができる(欲界とは、人、天の事である。)

c)不還者(アナーガミ):第四、第五の束縛は、断じ除かれた。彼は二度と、欲界には再生しない。

d)円覚者(阿羅漢):最後の五つの束縛も断じ除かれた。彼は如何なる世界にも再生しない。

4)七清浄:

第一階智とは、七清浄の中の見清浄である。

第二階智は、七清浄の中の度疑清浄である。

第三、第四階智は、道非道智見清浄。

第四から第13階智までは、行道智見清浄。

第14から第16階智は、智見清浄である。

(4-1につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>