Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

飛び入り翻訳~『24縁発趣論』1-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

故に、我々は、己の習気を改善しようとするならば、先に、己自身の性格が、貪が重いのか、瞋が重いのか、痴が重いのか、を理解しなければならない。

その後において、我々は己自身の欠点に応じて、それを糺さなければならない。

たとえば、自分が、瞋根の強い人でありながら、更に瞋恚を自由放任にして、糺す事をしなければ、それはちょうど山から転げ落ちる雪だるまのように、転がれば転がる程大きくなり、その後に、瞋根を取り除こうとしても、大いに困難となる。

瞋恚の対処方法は「慈愛」である。

常に慈愛を修習するーー

「私(+の心)は、敵意から遠く離れますように、

一切の衆生の平安と幸福を願い、

一切の衆生の身・心の苦痛からの遠離を願う」

という願いは、我々の瞋恚の心を退治することができる。

貪を退治する為には、布施をするだけでなく、欲愛、すなわち感官の感受等も、遠離しなければならない。

痴を退治する為には、仏法を聞かねばならない。仏法を聞いた後に初めて、我々は何が善で、何が不善であるか、何をしなければならず、何をしてはいけないかを、知ることができる。

もし、仏法を聞かないのであれば、我々は、我々自身の限界のある智慧でもって、善悪の区別をつけるのは難しい。

しかし、仏法を聞いた後であっても、我々は、聞いた法に関して、よく思惟しなければならず、なんでもかんでもそのまま、受け入れてはならない。

というのも、もし聞いたのが邪法であり、かつ、己自身がそれに対して、厳しく省察・審査しないのであれば、岐路に迷う事がありるが故に。

そうであるから、法を聞いた後、智慧をもって省察しなければならない。

もし、(+聞いた法が)正しいならば、我々はこれに依って、円満成就するまで、修行しなければならない。

仏法を聞く事、思惟する事、修行する事は、智慧を育てる近道である。

(1-8につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

ない。るならば、