Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

飛び入り翻訳~『24縁発趣論』1-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

しかし、この失明者はその服に対して、すでに強烈すぎる程の執着を擁していたので、母親の言う事を聞き入れず、この服を着続けて、あちらこちらに自慢して回った。

母親は思った:

「今、残された唯一の方法は、己の着ている服を、自分の目で見て確かめさせる事しかない。」

それで、彼女は彼を眼医者の所に連れて行って、息子の目を治してもらった。

彼は、己が着ている服が、己が想像していたのとは異なって、黒くて、またボロボロであるのを見て、騙されたのだと思って、非常に怒り、すぐさま服を脱ぎ捨てた。

彼は今、彼が執着し、追い求めた所の「白い服」を捨て去る事ができた。

なぜか?

彼は「白い服」の本当の姿を知ったが故に。

【ここにおいて、無痴は、縁法で、手放す事ができる(+という現象)は縁生法で、縁力は因縁である】

この失明者が、己の着ている服が、黒くてボロボロである事を知らないのと同じ様に、衆生は欲楽に迷い恋々するのは、衆生の心識の中に、いまだ無明、痴が存在していて、それが慧眼を覆っていて、物事の真相を見る事ができないが故である。

ひとたび無明が取り去られた時初めて、我々は欲楽の真正なる禍を知ることができ、この時、初めて(+執着を)手放すことができる。

みなさんご承知の通り、欲楽は、確かに楽しみを齎すが、しかし、欲楽もまた無常であり、変化するものである。

たとえば、我々は通常、身体を通して各種の欲楽を享受するが、しかし、我々の身体は、絶え間なく変化しており、衰弱し、病み、最後には死亡する。

もし、この事を見ようとしないのであれば、我々は必ずそれ(=欲楽)に執着する。

しかし、我々がこの身体をして無常であるものと見做す事ができるならば、我々は、この変化し、無常で、常に生・滅するものは、依存するに値わないと知るのである。

依存することができないものに対して、我々はどのように対応するべきであるか?

それへの執着を放下すのである。

執着の放棄、それこそが解脱の道なのである。

(1-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

(『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>