Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

FDC資料「37道品ハンドブック」2-12Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一人の修行者が、もし、先に身念処を修習しないで、禅定と vipassana の修習をするならば、それはちょうど、鼻索を取り付けていない牡牛が畑に行って耕耘するとか、または牛車を引っ張るようなもので、その時飼い主は、己の希望にそって牡牛を使役できない事を発見するであろう。

というのも、この牡牛は野生的で、鼻索を取り付けていない為、逃げ出そうと思って暴れたり、牛軛を壊して、軛から自由になろうとするのだから。

反対に、一人の修行者は、心霊(=心)を転換させて、禅定と vipassana を修習する前に、先に身念処の観想を行い、心霊を浄化し、心霊を静めれば、彼の専注力は安定し、修行の度合いは、非常に大きな成就が得られるものである。

大象の例では、森林から連れ出したばかりの野生の大象は、訓練を受け入れる前、さきに(+柵の中に)しっかりと、閉じ込めておかねばならない。

大象が完全に馴らされ、柔和になり、その他の多くの仕事に従事するよう訓練して初めて、国王の為の仕事もこなすことができるようになる。

そのようになった時、大象は正式な場所において、使役され、または戦場で戦うことができる。

快楽の感受の領域では、ちょうど一頭の野生の大象が、森林の中で、己一人で(+自由を)楽しんでいるようであると言える。

仏法は、ちょうど森林から連れ出されたばかりの野生の象が入れられる訓練場のようである。

心霊(=心)は、凶暴な象のようである。

仏法における「信心(=確信)」と「意欲」は、ちょうど野生の象を訓練する為に連れて来る所の訓練場のようである。

「戒清浄」は、木柵で囲った訓練場のようである。

身体または身体の部分、たとえば、呼気と吸気は、ちょうど象を囲い込む木の杭のようである。

身念処は、ちょうど野生の象を縛り付ける杭に取り付けた縄索のようである。

禅定と vipassana に向かう前の加行は、ちょうど象の予備的訓練のようである。禅定とvipassana の修習は、ちょうど国王の遊行・儀式または戦場のようである。

色々な観点について、今は(+私の記述によって)簡単に識別できるようになった。

たとえば、船頭、牡牛、象などの例において、古代の伝統的な教義に照らせば、過去における無尽の輪廻の中で出現した所の仏法の啓示において、身念住の重点、その第一歩は、「戒清浄」の修習を出発点とするのである。

(2-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>