<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
已に生じた悪業といまだ生じない悪業
輪廻の中で漂流する衆生の中には、二種類の悪業がある。
それは、已に生じた悪業と、未だ生じない悪業である。
「已に生じた悪業」とは、過去または現在における悪業を言い、その中には、以前の輪廻においてなした悪行も含まれる。
これらの悪業の中で、ある種の人々は、三悪道の中で転生しており、時間を無駄にしている。
ある種の人々は、三悪道において、(+よりよい)転生の機縁を願っている。
三悪道に生まれることは、長い時間の受難、苦難となるのである。
「身見」に落ち込んでいるそれぞれの衆生は、人類であっても、天人であっても、または梵天であっても、皆、過去において、無尽の罪債を蓄積している。
というのも、このような悪業は、最低層の阿鼻地獄に入る、潜在的可能性を秘めているからである。
同様に、彼らは、他の色々な業を蔵しており、その他の三悪道に、転生する可能性もある。
これらの、過去においてなした業等が、機縁が熟すと、(+それに見合った場所へ)転生する事になるが、何度転生しても(+その業は)随伴するのである・・・これらの業が、清らかに浄化されるまで。
これがいわゆる「已に生じた」(uppanna)である。
これら過去における「已に生じた悪業」とは、「身見」の中に植え付けられており、「身見」がある限り、いまだ業報が生じない内は、これらの悪業が消え去ることはない。
しかし、「無我」を直観する時、修行者は「身見」を取り除くことができる。
この時より、一切の「已に生じた悪業」は、潜在能力を失い、かつ過去の悪業を貯蔵していた倉庫、蔵より、消失する。
これより以降、修行者は、未来の輪廻の内、または夢の中においてさえも、三悪道に転生することはない。
(3-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>