Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

FDC資料「37道品ハンドブック」10-3 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

最終的に涅槃に入るために、善業を修習する。

それはすなわち、涅槃を証得する前の段階における世間的な利益、(+輪廻による)再生を厭わないなど、すべて「輪廻」及び「輪廻から離れる」事に関連している為、また、「両依止」(ubhaya nissita)とも言う。

しかし、パーリ経典では、「輪廻」と「輪廻から離れる」(+という二つの概念)にしか、触れていない。

輪廻(+に利益あるような修行結果の)証得に(+重点)を置く傾向にある修行者は、「輪廻に依拠する法」を実践していると言えるし、輪廻を離れるという結果に重点を置いている修行者は、「輪廻から離れる為の法に依拠」していると言える。

「決定」と「未決定」の分類については、(+以下の通りである。)

一般の凡夫の「身見随眠」は、巨大な領域であり、それは烈火の燃焼の巨大さと同じで、深い海の様でもある。

一般的に凡夫が、たまに修習する所の戒・定・慧は、一粒の雨が、燃え盛る海の中に落ちるようなものであって、

「私は戒律を円満した!

私は戒律を具足した!

私は禅定ができた!

私は正覚で(真理を)知った!

私は相当の機知に富み、

私は『色』と『名』を覚知・察知した!

私は『色』と『名』を黙観した!」

などと言うのは、すべて戒・定・慧の行為への露出・自慢であり、それは、「私の」「身見」に惑わされているに過ぎないのである。

それはちょうど、雨の一粒が、烈火のごとくに燃焼する大海の中に落ちるようなものなのである。

(10-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>